2012年12月31日月曜日

年越し蕎麦

 2012年最終日、タコは久しぶりに両親の墓参りに行きました。ニュースでは帰省ラッシュによる交通渋滞が伝えられていたのですが、意外にも道路は空いていて、郊外にある墓地まで気持ちよくドライブできました。12月に入ってから、「マヤ歴が予言する2012年12月21日人類滅亡説」とやらがまた面白おかしくマスコミなどで取り上げられていましたが、そうでなくても世界的に不安定な情勢の続く一年でした。それでも、またこうして静かに墓を掃除してお参りできるのだから、ありがたいことです。

 今年は久しぶりにひと月以上かけてヨーロッパを旅行し、来年に向けてしっかりと充電もできました。そう言えば、ドイツやフランスではいろいろな作家や音楽家、哲学者の墓地にもたくさん行きました。お墓にも個性があり、印象に残るものも多かったです。一般人のお墓では、故人の写真を陶板に焼き付けたものがあり、デザイン的にはいまいちですが、興味をひかれました。アルジェリア戦争への出兵前か休暇中に撮ったらしい意気揚々とした軍服姿の色男だったり、当時の流行の最先端だったフラッパー風のドレスを着た美しい御嬢さんだったり、いかにも70年代なもみあげのオヤジもいれば、まだあどけない幼子もいて、全く関係のないタコも、しばし立ち止まっては「う~ん・・・」とあれこれ想像にふけってしまいました。有名人のお墓も感慨深いものがありましたが、それはまた別の機会に書きたいと思います。

  両親のお墓詣りを無事に終えたらお腹が空いたので、帰り道の蕎麦屋で昼食をとりました。まぁまぁの味でしたが、タコはやっぱり中野の「さらしな」が好きです。2012年5月1日の投稿に書いた店です。今年は最後の28日まで名古屋への出張があったのですが、東京での仕事納めの日に「さらしな」で、大好きな蕎麦掻きをいただきました。石臼で引いた北海道産の粉を蕎麦湯で練って茹で、葉形にしたものを蕎麦湯に浮かべてくれます。上に載っているのはゆずと三つ葉。一口大に箸でちぎった蕎麦掻きを、汁に浸して口に運ぶと、優しい温かさと一緒に蕎麦そのものの香りと、薬味の爽やかな香りが広がって、ほっこりした気分になります。

タコ推薦・蕎麦掻き 950円

  ざる蕎麦ももちろん美味しいですが、温かいお蕎麦なら、「地獄」も美味しい。ホウレンソウや鰹節、海藻、そして鶏卵が乗っていて混ぜていただくので、ボリュームがあります。

地獄 950円

  最後は蕎麦湯を飲みながらお腹が落ち着くのを待って、店を出る頃には、もう行列ができていました。

  


2012年12月29日土曜日

ベルリンの朝の散歩


ドラゴンを退治する聖ゲオルギウス
ベルリンについてしばらくは足慣らしのため、市内を歩くことにしました。時差の関係から、10月29日午後1時に成田を出発して、モスクワ経由で同じ日の午後8時45分にベルリン・シェーネフェルト空港に到着しました。旧東ドイツに属する空港で、いかにも質素でガラーンと広く、それが閑散とした感じを与えます。ホテルはやはり旧東ドイツのアレキサンダープラッツという駅から歩いて3分の便利な場所です。多くの地下鉄(Uバーンという)の出発点や通過点ですので、レストランやビストロもたくさんあって便利です。カリーヴルスト(Currywurst)の美味しいお店には、顔馴染みになるほど通ってしまいました。ヴルストwurstとは、ドイツ語で、ソーセージのことで、これはパリッとあぶった大き目のソーセージにカレー味のトマトケチャップをかけた軽食です。
Spree川から見るベルリン大聖堂
10月末の東京はまだ暖かくて,街路樹の葉も色づかないうちに旅立ったのですが、ベルリンに着くと、そこはもう黄葉の最後でした。道を覆う落ち葉はとてもきれいです。ベルリンの秋の美しさは有名で、ぜひ一度来てみたいと思っていました。私は大学生の頃、ドイツ文学を専攻したこともあり、一時ドイツ留学を夢見ていろいろな大学のパンフレットを取り寄せたことがありました。その中にベルリンのフンボルト財団の大学もありました。それはあくまでも夢であり、経済的な問題であきらめて就職をしましたが、もし留学できていたら人生はまったく変わっただろうなと思いながらこの大学のあたりの黄葉をながめました。
 ロンドン同様、ドイツもこの時期、雨がシトシト降り、雲が低く垂れこめどんよりとしています。傘をさすほどでもなく、だけど何もないと頭が濡れて寒い。そこで雨除けの鍔付帽子を一つ買いました。撥水加工されたコートを着て行ったので、傘なしで万全です。帽子文化の意味がわかったような気がしました。


かつての水運のためか、ベルリンは川の多い街です。その川沿いに歩くのがなかなかイイ感じです。ベルリン名物のポンポン船が行き来して、とても風情があります。雰囲気が良いせいかレストランが多く、ベルリン子の夜のたまり場みたいです。そうしたにぎやかな場所で一人飲んだり食べたりは今回は気が進まなかったし、レストランでは一人前でも食べきれないほどの量。ビールもドイツ人にはかないません。一人旅の異国の地で酔いつぶれて運河にでもころげ落ちては大変ですから、タコはもっぱら街の屋台風のソーセージ屋さんやテイクアウトの店で好きなものを適量買って、ホテルで食べ、飲みました。すぐベッドにコロンとできます。一日中歩き回って疲れた身には、その方が静かで気楽です。シャワーを浴びてさっぱりすると、東京にいる時には考えられないほどの早い時間に眠りに落ちました。
 そのようなわけで朝はやたらと早く目覚めて、時間を持て余しそうでした(^O^;) 早めにホテルの食堂に行き、ビュッフェの朝食をたっぷりとると、昼時になってもお腹が空きません。この季節は日暮れが早いですから、ランチ抜きで見学に集中し、夜食はこのようにテイクアウトしてホテルでとりました。この度ではその後もほぼこの2食体勢を貫きました。写真はアレキサンダープラッツ近くのデパートの食品売り場です。ここには何でもありますが、アツアツのソーセージはインビス(imbiss:屋台風飲食店)にかぎります。
ガレリア・カウホーフのデリカテッセン
ケーキもボリュームたっぷり!
岩塩のきいたプレッツェル(中央)が美味
CURRY36はベルリン屈指のカリーヴルストの人気店

新旧建築様式が混在する独特の街並み
ベルリンでは毎日たくさん歩きました。歩きすぎて足裏にマメがたくさんできたほど。本当に痛くて閉口しましたが、歩くことによって地図が頭に入ります。日曜日には骨董市が4か所開催されるので行ってみました。蚤の市(Flohmarkt)という名前ですが骨董品もかなり出ています。なんと楽しいところだろう。でも、マメが2個つぶれた激痛に耐えかねて薬局に駆け込みました。最新式の大きめの絆創膏を勧められ、すぐ貼れといわれ別室に案内さたのでビックリ。しかしその場で貼ったらかなり痛さは軽減されました。さすが医学のドイツと思ったら、その絆創膏は実は日本人の発明らしいです。やはり最近は日本か~!と大いに誇りに思いました(^-^)。多めに買い足したのが正解でした。気ままに歩き回りたいタコですから、この旅の最後までこの絆創膏がどれほど役に立ったことかは言うまでもありません。履き心地が良いと思っていたスニーカーが意外に痛かったので、廃棄しました。もう一足、ウォーキング・シューズを持って行って良かった。そちらに履き替えたら、柔らかくて楽になりました。


化石を売っている店のウィンドウに映ったニコライ教会
今回、ベルリンその他ヨーロッパのアンティーク・マーケットについては日本骨董学院のホームページの表紙から愛知県共済のインターネット文化講座にアクセスしていただきますと2013年1月から12回連載する予定の「西洋アンティーク紀行」をお読みいただけます。ヨーロッパの骨董市は非常に面白いので、ぜひそちらもご覧いただければと思います。

 私の滞在するホテルから歩いて10分くらいのところに通称、博物館島があり、そこに主だった美術館、博物館が集中しています。ベルリンの大きな目的はNeues Museum(新博物館)所蔵のエジプトの「王妃ネフェルティティ胸像」とAlte Nationalgalerie (旧ナショナルギャラリー)所蔵の私の大好きなカスパール・ダヴィッド・フリードリッヒの一連の名画を鑑賞すること、ペルガモン博物館の神殿を詳細に観ること、そして4か所の骨董市をめぐること、最後に第二次世界大戦後のドイツの負の遺産を徹底的に直視することでした。

2012年12月27日木曜日

初めてのベルリン

今回の旅行は10月末から12月始めまで、合計で35日間になりました。時期的な問題、到着がベルリンという条件のもとに航空会社を選ぶとロシアのアエロフロート航空にならざるを得ませんでした。運賃の安さも条件の一つです。というわけで、ロシアのシェレメチボ空港でトランジットしたのですが、空港は新しく、案内掲示などもしっかりしていて問題はありませんでした。事前にインターネットで見たいろいろな情報の中には、旅行者がパスポートコントロールに殺到して列をなし、恐ろしく時間がかかるから、飛行機から降りたらとにかく走りなさい、などと書かれていたものもあったりして、ちょっとドキドキでした。しかし、改善されたらしく、実際は特に不便は感じませんでした。ただ、搭乗直前にゲートが変更されることがあるのが日本と大きく違う点です。一応ロシア語と英語でアナウンスが流れるのですが、うっかりしていると聞き逃しかねません。ですから、電光掲示板からは目が離せません。これはドイツやフランスの鉄道、飛行場でもすべて同じですから、日本の交通機関は世界に類を見ない正確さで運行されていることに改めて驚異とありがたみを感じます。それから余談ですが、アエロフロートはフライト・アテンダントが美人ですね。飛行機の中と空港で見た限りではありますが、男はちんまりして大したことない一方、女性は白系ロシア美人が多かった、というのがタコの感想です。

 こうして、シレメチボ空港は余裕で問題なく通過できました。いよいよベルリンのシェーネフェルト空港。ここも元ロシア領で発展が遅れたせいか、閑散とした感じでした。案内所(iのマーク)でウエルカムカードを買って、列車に乗り込みます。この列車が頑丈な電車で、ものすごく重そう。ウエルカムカードは便利なもので、ベルリン近郊のすべての交通機関が3日間乗り放題。切符を買う手間が省けまるのでお勧めです。ドイツならどこの都市のインフォメーションにも観光客用に販売しています。これを見せれば飲食店から劇場、博物館などはかなりお得になります。
(写真は旧東ドイツ・アレキサンダープラッツ駅近くのホテルの部屋から見た電車線路とベルリンのシンボルのテレビ塔)

 僕は小さいころから父の蔵書にあったひげ文字の戦前のドイツの写真集に親しんできました。ビスマルクとかヒンデンブルクの時代の古きよきドイツ。初期の飛行機や飛行船。こうした子供には異次元の写真集はタコの最初の「愛読書」でした。ですからドイツにはなにか縁を感じます。高校ではドイツ語を学び、大学もドイツ語で受験し、専攻もドイツ文学科へ進学しました。そんなこともあり、ドイツやヨーロッパは幾度も訪れましたが、ベルリンは今回が初めてです。東西分裂の悲劇に見舞われ、ドイツの首都でありながら発展が遅れ、交通の便など観光の為の環境整備も遅れていたので、今まで来る機会がありませんでした。そんなベルリンに到着した時は、「やっと来れた!」という感じでした。自分の人生の「穴」を埋める意味合いも大きいと感じていました。

 ベルリンはヒトラーの総統司令部があったので、徹底的に爆撃され、戦闘で破壊されました。ヒトラーについては、面白い映画があります。2004年公開の「ヒトラー最期の12日間 Der Untergang」という映画です。ヨアヒム・フェストによる同名の研究書と、アドルフ・ヒトラーの個人秘書を務めたトラウドゥル・ユンゲの証言を土台とした脚本です。この個人秘書の証言の中立性については疑問視される点もあるようですが、稀代の独裁者を一人の人間として綿密に描き出すことにチャレンジしている点で評価できる映画です。ヒトラーを演じたドイツの国民的俳優、ブルーノ・ガンツがとにかく強力です。歴史上の人物を主人公に据えた映画となると、相応の俳優がキャスティングされ、その力量を存分に発揮した見ごたえのある作品が数多くあります。王族であれ、ギャングであれ、良くも悪くもその人物がどのように形成されていったのか、観る者を納得させる演技と筋立てになっているのが常です。しかし、ヒトラーを描くとなると、同情や共感を呼ぶような演出は、一切許されません。その不気味なカリスマ性で群集を沸かす、ナチスの党大会での演説の場面なども使われていません。息苦しくなるような威圧感を漂わせつつ、最期の12日間に煮詰まって行く狂気を滲ませるブルーノ・ガンツのヒトラーには、まるでドキュメンタリーのような凄みがあります。「この手の映画はヘビーでちょっと・・・」、と言っていた友人も、さわりだけ観るつもりが、最期まで引き込まれてしまったそうです。

総統司令部の地下には周囲すべて3メートルの鉄筋コンクリートで固めた巨大な地下室があり、そこからヒトラーは命令を出して全軍を指揮していたそうです。映画は、ほとんどこの地下壕で展開されるので、その閉塞感とブルーノ・ガンツの濃さが相まって、見る側も消耗していきます。とうとう追い詰められたヒトラーは前日に結婚式をあげた愛人、エバ・ブラウンと自殺して、庭でガソリンで焼却させます。ブランデンブルグ門の近くに首相官邸と総統司令部がありましたから、その場所はおおよその見当はついています。ただ、どの地図にも、案内書にもその地下壕については何一つ掲載されていません。ドイツ政府はヒトラー崇拝熱やネオナチの台頭を恐れているのでしょうか。その総統司令部跡を探すのも今回の目的の一つでした。

(写真はベルリンの美しい晩秋のようすです)  

2012年12月26日水曜日

映画「オーケストラ」と放浪の旅の始まり


 最後にこのブログに投稿してから、アッという間に二月以上経ってしまいました。
 かねてより、11月は色々と取材や研修の為にヨーロッパに行く予定を立てていたのですが、そのせいで10月は寝る間もないほどの忙しさでした。

 
 それまで、時間に余裕があるとつい映画を観たりしていたのですが、その中で娘に勧められた「オーケストラLe Concert」というフランス映画は、なかなかおもしろかったです。2009年の作品なので、DVDで観ました。ストーリーの主役はロシアのボリショイ・オーケストラの元指揮者と団員達、そして美しいフランス人ヴァイオリニスト(メラニー・ロラン)。ブレジネフ政権時代の反ユダヤ政策でパージされたユダヤ人や親ユダヤ団員達が、生活の為に音楽とは無縁の仕事でかろうじて生計を立てている様子から始まります。ある時、フランスのシャトレ劇場からボリショイ・オーケストラに演奏依頼のファックスが届きます。現役担当者の目に触れる前にそれを手にした元団員が、とんでもないことを思いつくのです。昔のオーケストラ仲間を集めて、現役のボリショイ交響楽団になりすまし、フランスの一流劇場で演奏するという計画。しかも、フランスの人気ヴァイオリニストを指名して。30年近くも演奏から離れ、社会の底辺に追い込まれていた団員達ですが、あらゆる無理難題を乗り越えてフランスにたどり着き、見事にこの無謀な計画を実現させてしまいます。その過程もおもしろいのですが、ラストを飾るのが指揮者がこの曲を絶対に演奏したい、と執拗にこだわった、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35第一楽章です。この曲に、フランス人の若い女性ヴァイオリニストと、ボリショイ交響楽団を結ぶ悲しい過去と夢の実現が秘められているのです。

 
 これはもちろんフィクションですが、現実にも政治的な理由で抑圧されたり迫害され、苦労した人はたくさんいるでしょう。今も過去のことではないかもしれません。この映画では、そうした様子を、おおらかなユーモアに包んで描写しています。ロシア人気質や、ロシアならではの問題点などもコメディーに仕立てています。例えば、ロシアで飛行場に向かうシーンでは、待てど暮らせどバスが来ないので、団員達がマネージャーにちゃんとバスを手配したのか問い詰めると、「バスが遅れて迎えに来ることを見越して、実際より早い時間に来るように指定しておいた」と言います。そうか、ロシアではこれくらいしないとだめなのかな。そう思って観ていると、結局バスは来ない。これ以上待つと飛行機に間に合わない、ということで団員達が楽器など重い荷物を持って延々と歩いて飛行場に向かう、という展開です。先にバス会社に金を払ってしまったから来ないのだという意見も。このあたりがロシアらしくておもしろい。こんなドタバタの繰り返しで、一度もまともに練習やリハーサルすらできないのに、30年ぶりのいきなりの本番では見事な演奏に・・・というのはいくら映画でもむりやりすぎやしませんか?という方も是非この映画をご覧になってください。クライマックスの演奏シーンには本当に感動しますから。僕もこんな風にバイオリンが弾けたらなぁ、と思ってしまいました。因みに、フランスではこの映画の公開後、好きな作曲家No.1にチャイコフスキーが選ばれ、この楽曲を収めたCDも売り上げNo.1になったそうです。

 
 この映画のラデュ・ミヘイレアニュ監督は、ルーマニア生まれのユダヤ人。チャウシェスク政権下から亡命後、フランスで映画の勉強をして監督になったそうです。そして、謎のヴァイオリニストを演じるメラニー・ロランもやはりユダヤ系で、おじいさんはナチスの迫害を受けたそうです。かつてのナスターシャ・キンスキーを彷彿させます。そういえば、彼女は「イングロリアス・バスターズ」にも出ていました。監督のクェンティン・タランティーノは、ナスターシャ・キンスキーにこの映画への出演を依頼をしたけど実現せず、結果的にその役はダイアン・クルーガーに与えられたのですが、ナスターシャのイメージをメラニー・ロランに見出していたのかな、などと想像してしまいます。「イングロリアス・バスターズ」でのメラニー・ロランの役どころは、ナチスに目の前で家族を殺され、唯一生き残ったユダヤ系フランス人のショシャナ。復習に燃え、映画館の女主人となり、ナチの将校達を映画館もろとも焼き殺す計画を立てます。真っ赤なドレス、メラメラと燃える映画館のセルロイドのフィルムがなかなかエグイ演出でしたが、彼女の楚々とした風貌との対比が印象的でした。「コンサート」でも情熱や悲しみを秘めたクールなヴァイオリニストをまた違った形で演じています。

 この映画を見ていた時はまだ自分がよりによってエアロフロートに乗ることになるなんて、思ってもいませんでした。ところが、僕はまずベルリンに行きたかったのに、直行便はないし。他のエアラインでは乗継時間に無理があり・・・結局、希望した日程と時間的余裕という条件を満たしたのは恐怖のエアロフロートだけでした。僕の調べた限り、エアロフロートは現在日本に営業所がないみたいで、ウェブサイトを見ても、問合せや連絡先にシンプルにロシアの電話番号が記載されているのみです(・・;)。乗り換えのモスクワ空港は電気があまりついてなくて、薄暗いとか、いろいろ不安な噂を耳にしていたし、あの映画に出てきた光景をあれこれ思い返すと、少々心配にはなりました。しかし、他にチョイスはなく、10月末、タコはエアロフロートでヨーロッパ放浪の旅に出発しました。