2013年1月30日水曜日

マルティン・ルターと桃山文化


  11月1日、ベルリンを拠点にして少し周辺を歩いてみようと思いました。かねてより訪ねてみたかった場所の一つがマルチン・ルターのいたヴィッテンベルグ(Wittenberg)です。その日はヴィッテンベルグを見学して、その足でバッハのいたライプチヒに向かう予定をたてました。マルチン・ルターに興味をいだくのは、彼のなした宗教改革の炎が大きく当時の世の中を変革する方向へ導いたからです。中世キリスト教の教皇権の世界から、王権の確立、そしてフランス革命などを経て共和制国家の出現から現代の民主政治に至る大きな流れの転換期です。そしてそれが結果的に日本の桃山時代の文化の成立に大きく影響を与えたからです。

 当時、各国での王権の伸長がローマンカトリックの教皇権の衰退を招いていましたが、分裂続きのドイツでは依然教皇の権威が強かったのです。そうした折にイタリアの富豪、メディチ家出身のローマ教皇レオ10世はペテロ寺院の修築を考え、その費用をドイツから捻出することを考えて、免罪符の販売を許したのです。人々の無知に付け込んだ免罪符販売使節たちが、悔い改めなくても免罪符さえ購入すればどのような罪も「購入」という善行によって許されると説いてお金を集めました。




95ヶ条の要求をかかげた扉のある教会
  それに対して敢然と反対したのがヴィッテンベルク大学のマルチン・ルターでした。1517年ヴィッテンベルク教会の扉に95か条の意見書をかかげ、ローマ教皇に反対しました。彼は「救い」はただ信仰によってのみ得られるものであって、聖書のみを至上のものとすべきであると主張しました。後にルターは新約聖書をドイツ語に翻訳し、それが現代ドイツ語の成立につながる普及となったといわれます。15世紀半ばのグーテンベルグの活版印刷術の発明が聖書の普及に大きく貢献したとされています。その後、ルターの教えは教皇に対立する新興領主に利用され、教皇がルター派の弾圧をしようとすると、領主たちが「信仰は個人の自由であり、権力で強制してはならない」と抗議(プロテスト)したことによって、のちにルター派のことをプロテスタントと呼ぶようになりました。

ルターの書斎
  ルターの改革は燎原の火のように燃え盛り、信仰の広がりをみせました。その火はイギリスにも飛び火し、ヘンリー8世の皇后との離婚問題にからんでイギリス国教会の成立をみました。カトリックでは離婚を禁止され、皇后と離婚できなかったヘンリー8世は新たに独自の教会を作り、離婚を可能にしたのです。宗教改革があったからこそこうしたことも可能となったのです。皇后との離婚に成功したヘンリー8世は晴れてかねてからの恋仲のアン・ブーリンと結婚して、そこに生まれたのが近世イギリスに繁栄をもたらすエリザベス1世であり、現代までつながる家系となるのです。

 プロテスタントの大きな台頭の結果、カトリックは内部の引き締めと粛清を行なわねばならず、軍隊的組織によって統一されたスペインのイエズス会は新たな信者の獲得と勢力拡大の使命を担って宣教師を多く海外に送り、失われた教皇権の回復と収入の補填先の獲得に乗り出したのです。それがアジアにまでやってきて、日本にまで進出したフランシスコ・ザビエルで有名なイエズス会なのです。聖堂などの金銀極彩色のきらびやかな装飾絵画や西洋の文化、ガラス、食文化、科学がもたらされました。まさにバチカンのシスティーナ礼拝堂の美術です。

 日本の戦国時代には「かぶく」とか「バサラ」(ともに異様な風体で人々を驚かせた)という風潮がはやりました。それは戦場での活躍を主君に認めてもらいたいがために派手で目立つ軍装をし、恩賞をもくろんだからです。しかしそれが戦国の無頼文化の中に浸透してきたことと、宣教師がもたらした教会内部の豪華な装飾絵画が大きく信長などに取り入れられた結果、桃山文化の成立をみます。安土城、秀吉の聚楽第、大阪城などなどに大きな影響を与えました。

デスマスク
  ルターの改革の炎は形を変えて日本にキリスト教をもたらし、西洋の文化をもたらしました。しかしキリスト教の自由、平等、博愛の精神は、そののち日本にとっての封建制の確立に邪魔な存在となり、サン・フェリペ号事件を境に日本を植民地化しようとたくらんでいた宣教師たちの陰謀が暴露され、180度急転直下まさに次なる秀吉のキリスト教禁止令と宣教師の処刑に繋がって行き、島原の乱にてやっと収束します。  また、派手な文化はそののち日本芸能に新たな一展開をもたらしました。歌舞伎です。出雲の阿国によってはじめられた歌舞伎踊りは新たな庶民芸能の世界に発展して行きました。ルターによる宗教改革が思わぬ方向に発展して、日本に影響を与え、日本史を揺るがす事件に大発展したり、歌舞伎の成立にも影響を与えたという事実がなかなかおもしろいと思います。

2013年1月21日月曜日

哲学者フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の生家と墓所を訪ねる 

2012年11月2日 ライプチヒ

Friedrich Nietzsche
  この日はドイツにやってきて初めての快晴です。本当にいい天気。午前中は長年の念願である哲学者ニーチェ(1844年10月15日レッケン生まれ・1900年8月25日ワイマールにて没)の生家とお墓に行ってみることにしました。

 ライプチヒ駅前にホテルをとっていたのでとても外出には便利です。 いつものようにホテルで早めの朝食をとり、8時05分のWeissenfels ヴァイセンフェルス行きの普通列車に乗り約40分、下車してタクシーに乗りました。タクシーの運転手さんにニーチェの生家であるRoeckenのEvangelishe Dorfkirche (レッケン村の福音教会)に行ってくださいと言っても、わからないらしく、無線で会社にきいてました。ややあってわかったらしく出発。

   どこから来たんだと聞かれ、日本からといったら、なんでこんな田舎の教会に行くのか、知り合いでもいるのかと不審がられました。ニーチェの生家と墓があるからそこを訪ねたい旨をつたえたのですが,知らないらしいのです。タクシーは約20分で15ユーロでした。20分も車で離れたところから駅まで歩いては戻れませんから、1時間したら迎えに来てくれないかと頼んだら客も少ないせいなのでしょうか、OKでした。

ニーチェの生家への道標
   Roecken村で下してもらうと、とても静かできれいな村でした。「フリードリヒ・ニーチェの家」と書かれた標識が目に入り、その矢印が指す方向に教会の塔があったのですぐ見つかりました。それにしても、だれもいない、ひっそりとした村です。


ニーチェと母の像
  小さな塔のある教会の入り口を見ながら裏手に回り込むとニーチェの白い塗料の塗られたブロンズ像が4体あり、そのうちの1体は母親と一緒の有名な写真を参考に制作されたものです。

 作者はKlaus F.Messerschmidt氏。2000年のニーチェ没後100年記念につくられたと案内掲示にあります。

 この像から推測すると彼の身長はあまり高くなく、165センチから170センチくらいだと思います。









ニーチェと両親と妹の墓が並ぶ
  教会を巻くように右に沿って歩くと裏手に出て、さらに沿って歩くとニーチェの墓と両親の墓、妹のエリザベートの墓がありました。秋の紅葉が陽に映えてとても美しい光景です。

   ニーチェの父はこのプロテスタント教会の牧師でしたが5歳のとき彼は父を失います。すぐそばにあるニーチェの生家の階段からお父さんはあやまって転び落ちて頭を打ち、それがもとで1年後に亡くなったと伝えられています。

  しかしニーチェもそうですが、脳軟化症やてんかんの家系でもあったようです。父36歳の若さでした。その後母と妹と叔母とともにこの村を離れて、ナウムブルグに住みます。

 ニーチェは学業に励み、大学卒業後、わずか24歳でバーゼル大学の古典文献学の教授に抜擢されます。

  これは権威主義の強い当時の大学では異例のことです。彼の飛び切りの秀才ぶりがうかがえます。

 その翌年に普仏戦争に参加して健康を害し、さらにその後の10年で体調を完全に崩して大学を辞任。以後、著作活動に入りますが、父と同じ脳軟化症、精神病が悪化して1900年に亡くなります。56歳でした。

 最初の著作として、大きな影響を受けた哲学者ショーペンハウエルと作曲家リヒャルト・ワーグナーとの交流から「悲劇の誕生」が生まれます。

  しかしその後の著作は当時の人たちからは理解されず、孤独のうちに ひたすら独自の哲学を形成してゆきます。




  タコの大好きなウイーンの伝記作家・評論家で名文家であるステファン・ツヴァイク(Stefan Zweig)は彼の著作「デーモンとの闘争・フリードリッヒ・ニーチェ」でこう書いています:

 「フリードリッヒ・ニーチェの悲劇は、いわば独演の悲劇である。その生涯の短い舞台には、彼自身をのぞいて、ほかにひとりの登場人物も現れない。破滅に向かってなだれるように落ちかかる全幕を通じて、ただひとり孤独な力闘者が、嵐をはらんだその運命の空のもとに立つのみである。・・ニーチェはつねにただおのれひとりで語り、おのれひとりで闘い、おのれひとりで苦悩するのである。誰に語るのでもない。誰が答えるのでもない。だが、さらに恐ろしいことには、だれも彼に耳を傾けようとしないのである。」

(みすず書房・杉浦博訳)

  こうした当時の一般常識からかけ離れた孤独な世界で思索したニーチェの著作ですが、驚くべきことに、常に前向きな生き方で貫かれています。

 若い時に読んだ、永遠回帰を説いた「ツァラツストラはかく語った」は彼の代表作のひとつであり、彼の思想が極めて濃厚に凝縮されています。その中で彼はこういいます:

 「今のこの人生を、もう一度そのままそっくり繰り返してもいいという生き方をしてみよ」と。

 ニーチェの言葉はたくさん私に影響を及ぼしていますが、特にこの一言は人生の後半深く入り込んだ今の僕に非常に重みを増してきています。



少年ニーチェが暮らしたナウムブルグの家

馬車の時代に撮影されたニーチェの家
  彼の思想的結実はあのツアラツストラの中の有名な「永遠回帰」の思想でしょう。これは地上の有限な物質が宇宙的な無限の時間の中で組み合わさると、同じ人間、同じ動物、同じ物質が生まれるという思想です。ニーチェによれば人間、いまの自分すらいつかまた生まれるということになります。永遠の時間の中でこれが繰り返される。これは究極のニヒリズムです。カフカはグスタフ・ヤーノホとの対話の中で、同じ人間が回帰することはないとニーチェの考えに反対意見を述べていますが、それだけカフカはニーチェを愛読したということになります。このニヒリズムを超えるのが「超人」思想です。超人はいいます:「これが人生か、であればもう一度生きてみよう」と。永遠回帰はカフカの言うように、DNAを継承する人間にはありえないでしょう。これは人々が前向きに生きてゆけるように考えられた哲学的方便であると僕は思います。人の持つ絶対時間は有限です。その有限な時間を意識の上で無限(永遠)として使うことができるように、何回失敗しても、何回くじけても、コケても気持を新たに強く生きよ、とニーチェは激励してくれているのだと思います。 

ニーチェも歩いたであろうナウムブルクの歴史を感じさせる街並
 「万物は流転する」といったギリシャの哲人ヘラクレイトス、仏教の輪廻の思想、ソロモンの「伝道の書」などに、すでに永遠回帰は考えられていました。ただニーチェにとっての「永遠回帰」は彼独自の体験、「神の死」に続く自分の体験、すなはち実存体験としてとらえられている点に重要性があります。

※ソロモンの「伝道の書」には次のように書かれています。「先にありしものはまた後にあるべし。先に成りしことはまた後に成るべし。日の下には新しきものあらざるなり。見よ、これは世に新しきものなりと指していうべきものありや。それはわれらの前にありし世に、すでに久しくありしものなり」と。もちろんニーチェはバーゼル大学の古典文献学の若き教授でしたから、こうした世界の哲学者、賢人の言葉や思想は知っていたに違いありません。


右側がナウムブルグのニーチェの家
 中國古代の思想家、老子や荘子にいわせれば「神」などという概念は、人々の中から権力が形成される過程で、権力者の言葉を神の「お告げ」に置き換えることによって、人々を畏怖させ、その神の力で権力を行使するという、いわば人間のご都合主義で考えられたもので、もともと「神」などというようなものはないのだということになるかもしれません。

  しかしヨーロッパではキリスト教の歴史は古く、文明そのものに及ぼした宗教の影響は多大といわざるをえません。中世以来のキリスト教の堕落はルターなどの改革を生みました。バーゼル大学のニーチェの同僚である神学者オーフェルベックは近世キリスト教の世俗化は、原始キリスト教精神の喪失にあるとし、それにはニーチェも同感の意向ですが、しかしその原点すなはちキリスト教の原点を否定する考えはないようです。
                           
 既成権威や「えせ」インテリ階層との闘い、「神の死」に至るキリスト教に対する闘い、友人との間がもっとも仲のよい時に、その友情が実際に本物であるかどうか徹底的に疑ってみよとニーチェはいいます。自分をとり巻くすべての価値の転換を試みよと。


ニーチェの住んだナウムブルクの街をのんびりと走るトラム
教会横のニーチェ」の墓
 我々小さな人間は日常の生活の流れに身を任せて毎日を安逸に過ごしていますが、ニーチェはそれではだめだといいます。すべてを見直せ、すべてを疑え、そして何度同じ人生を繰り返しても満足な、そんな最善の道を行けと我々に命じます。その結果が先ほどの「今この人生を、もう一度そのままそっくりに繰り返してもいいという生き方をしてみよ」ということになったのです。

 充実した人生、それはもう理想的な生き方です。なかなか現代社会では難しいかもしれません。しかし私は大学時代、ニーチェの著作を読んで、少なくともそれはそう心がけ、そう努力する価値はあると信じました。ニーチェは僕に生き方を教えてくれた人生「ただ一人の師」といえます。今回の旅行も行きたかったところの穴を埋めるという意味を持っていることは言うまでもありません。それはまさにニーチェのいう悔いのない人生を送りたいと考えているからにほかなりません。

 滞在時間もなくなりました。そろそろ迎えのタクシーも来るころです。きっともうここに来ることはないでしょう。僕は人生の師であるニーチェの墓に手を置いて、ドイツ語で感謝と別れの言葉を伝え、そこを離れました。

                


2013年1月15日火曜日

最悪のベルリンフィル・コンサートホール(Die Berliner Philharmoniker)  

 11月3日はライプチヒに滞在していて、そこから2時間、列車に揺られてベルリンに戻ってきました。その夜、楽しみにしていたベルリンフィルのコンサートに行くためです。

タコの好きなさまざまなフルトヴェングラーのCDの表紙
 僕の音楽好きは、叔父兄弟の影響もあります。二人の叔父達は、タコが小学校3年生頃からレコードを一緒に聴かせてくれ、新宿のコタニレコード店にもよく連れて行ってくれました。トスカニーニが全盛期で、今でも彼の顔写真入りの「運命」のジャケットと、当時幾度となく叔父達と聴いた速い出だしの特徴ある「運命」も頭の中に鳴っています。ワルターも叔父達は結構聴いていました。

フルトヴェングラー指揮のブルックナー第5と第9交響曲のジャケット
 フルトヴェングラーがベルリンフィルを指揮して全盛期を誇っていたのは、もう少し前のことです。フルトヴェングラーを叔父たちはあまり聴いていなかったようです。録音が古かったこと、ステレオに人気があり、モノラルに人気がなかった時期かもしれません。

華麗なるカラヤンの指揮(チャイコフスキー交響曲全集より)
 
 その後ベルリンフィルはカラヤンに移り、楽団員とのトラブルなどいろいろ問題はあったようですが聴衆にはカラヤンの派手なパフォーマンスや貴族的な風貌は人気がありました。音楽のメッカ、ドイツの首都のベルリン、そのベルリンのもっとも大きな交響楽団を指揮することは、クラッシク音楽界を制することに他ならない力を持つことになります。帝王カラヤンとも言われました。

 今回は日本を立つ前にインターネットでベルリンフィルのコンサートを予約して、券も事前に送られて来ていました。僕は直前までライプチヒにいて、バッハの聖トーマス教会でのオルガン演奏会やライプチヒ弦楽四重奏団のすばらしい演奏を間近に聴いていました。

外観に凝っても音響には無頓着
 いよいよコンサートホールに入る時が来ました。入り口には大勢の人がたむろしていて、何事かと思ったらダフ屋でした。私のところにやってきて、切符を見せてくれというから見せたら、売ってくれというのです。Nein、danke!(いいえ結構です)といって中へ。

 開演間際まで席に入れないのは、ラウンジで飲み物を楽しむ時間を設定しているということで、いかにもそれらしいのですが、お話相手のいないタコは一人でカクテルを飲んでもしかたないので、ひがんで上のベンチへ・・・

 30分たったところでベルがなり、着席。70ユーロも出したので良い席かと思いきや、さほどではなく、まあ普通・・・期待はずれという感じ。また少し腹が立って周りを見回すタコ。しかし大きなホールだなと素直に感心。天井も高いし、どれだけの大人数が入るのかと少し疑問も出始めました。

 オーケストラの前は当たり前的に客席ですが、よく見ると楽団が演奏する後ろも客席、横も客席、これではホール全体が客席で埋め尽くされており、はっきりいって円形劇場の類です。いったいどのくらいの聴衆が入るのだろうかと改めて唖然としました。

 後で知ったことですが、なんと2440席!!普通の良心的なホールであれば1200席、多くても1500席。ここはかなり大きいです。このベルリンフィルのコンサートホールは当初から問題があったみたいで、パイプオルガンを設置することをうっかり忘れたらしく、なんと後から組み込んだというお粗末さです。信じられないミスです。たくさん人数を入れることばかりに気をとられて肝心のパイプオルガンの設置を設計し忘れたのでしょうか。普通はオーケストラのすぐ後ろにあるのですが、ここはそこも客席になってます。

 ライプチヒから帰ってすぐの夜、20時から演奏開始です。
  当日のコンサートのプログラムは:

●ストラビンスキー 3つのバレー輪舞曲
●プロコフィエフ バイオリン協奏曲1番  
●ドヴォルザーク 交響曲8番  指揮:イヴァン・フィッシャ-   
ソロバイオリン: リサ・バティアッシュヴィリ

ベルリン・フィルのオーケストラ

 楽団員が入場して、指揮者が登場。拍手。そして演奏開始。これはタコ個人の感覚と評価ですが、このストラビンスキーの最初の音を聴いて、がっかり(ーー;)。世界中のホールの音響を確かめたわけではありませんが、この響きの悪さはおそらく世界屈指なのではないでしょうか(笑)。もう5分で出ようかと思ったくらいです。しかし交響曲もあるしせっかくここまで来たのだからと我慢。
プログラムの表紙を飾るヴァイオリン奏者
 
 次の女流バイオリニストに期待しましたが、それも所詮無理な話でした。このバイオリンの音も響かないので遠くて小さい。何だこの音響は!!というのが正直な感想です。前日にライプチヒ弦楽四重奏団のすばらしい演奏を一番前の真ん中の席で堪能したので、なおさら。それを差し引いてもあまりにもひどい音響でした。

 ドヴォルザークの交響曲も音響が悪ければ聴く方としてもどうにもならない。あまりにも人をばかにしたこの演奏会には腹が立つより失望感が強く、もう絶対にここには来ないという決心だけが残りました。この質の悪いホールのせいか大したことのない演奏に聴こえてしまった女流バイオリニスト、そんな彼女にベタベタする指揮者にも憤然たる思いでした。

 商業主義、すなはち良心的といえる範囲を上回る人数を収容するホールと特に音響の悪さ、すべてがこれに帰結すると思います。カラヤンの時から、ベルリンフィルの経営陣とそれを取りまく商業主義は目立ってました。

カラヤン晩年の写真

 どこのオーケストラも全体的に赤字なら指揮者の手当、独奏者の手当、声楽家の手当はバカ高いので、すべてを見直せばいいのです。観客だけにその負担を押し付けることは、将来の自分たちの芽を自らが摘んでいる暴挙としか思えません。これでははるばるベルリンに来なくても、自宅のオーディオシステムで聴いていた方が何倍も良かったです。ここはコンサートホールではなく、いわば野外ライブのステージだと思います。マイクとスピーカーでガンガンボリュームを上げないとだめなライブステージ。

 あとで調べたら、そのことは経営者も十分承知らしく、楽団員たちには音を強く演奏するように申し渡しているとか。タコもビックリ。さすがにクラシック音楽にマイクとスピーカーは設置できないのでそう指示したのかもしれません(-_-メ)。もうここまできたらこれはクラシック音楽を演奏するホールではないと思います。音楽は緩急、強弱の和音の流れでできているわけで、弱く演奏できないということは繊細な表現ができないというか、聴こえないことになるので、たとえばシベリウスのバイオリン協奏曲の出だしはどうなるのでしょうか。あの静けさの中に北欧の海を照らす弱い白夜の光の中をゆったりと航行する船のごとき静謐の世界の音をここではどう観客に聴かせるのか。大きな強いバイオリンで思い切り演奏せよというのか、さもなくばそういう静かな曲は一切演奏しないというのか、きっとそのどちらかなのでしょう。

聴衆をわかせた、セーターも乱れんばかりの、飾らないフルトヴェングラー渾身の指揮のようす
(CDの表紙より)

 最後に熱心に拍手していた人たちは、フルトヴェングラーによって確立された名門ベルリンフィルという栄光の影のみを引きずっているのでしょうか。それともカラヤンの華麗な姿にほれ込んでいた方々なのでしょうか。またはかれらによってつくられた虚構の世界にしびれて麻痺している人たちなのでしょうか。音楽の本拠地であるだけになんとも虚しく、さまざまなことを考えさせられた夜でした。ライプチヒから駆けつけたタコの足は、帰りは急に重いものになりました。

2013年1月14日月曜日

バッハの墓まいりとライプチヒ弦楽四重奏団演奏会に参加して  ゲーテ Goethe 「Faust」 ゆかりのアウアー・ケラー Auer Keller

 2012年11月2日 ライプチヒ 快晴 

 ドイツに来て初めての快晴。いい気持ちの朝、いつものように早めにホテルの朝食をすませ、鉄道でヴァイセンフェルス(Weissenfels)で乗り換えて、哲学者ニーチェ(Friedrichi Nietsche)の生家と墓をレッケン(Roecken)に訪ねました。

 その後、ライプチヒに戻り、聖トーマス教会へ。バッハが1723年から1750年まで音楽監督(Thomaskantor)を務め、あの有名な「マタイ受難曲」や年間50曲平均の作曲と演奏を行ったことで知られる教会です。

 僕は高校の時にコレルリの合奏曲が好きになり、その流れで ビィバルディーやバッハを聴くようになって、そこから急速にバッハに魅かれました。特に無伴奏チェロ組曲や無伴奏ヴァイオリンソナタは大好きです。

 その他どのようなバッハの曲も好きですが、ヴァイオリンがレオニード・コーガンでチェンバロがカール・リヒターの「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」などはとりわけすばらしい曲だと思います。ブランデンブルグ協奏曲も好きでレコードを収集しました。現在まで詳しいリストを作成してませんが、この曲だけで、指揮者・楽団の違う古今のSPからLPレコードまで100セットはあると思います。

祭壇前のバッハの墓にお参り

 今回はそのバッハが活躍した念願の聖トーマス教会を訪れ、彼の墓に詣でることができました。教会の祭壇前の質素でバッハらしいお墓です。13年間連れ添った最初の妻に先立たれた後、再婚したアンナ・マグダレーナは16歳年下でしたが、貧しい生活の中、献身的にバッハを支えたとのこと。きっとお裁縫もせっせとしたのでしょう。彼女の小さな指ぬきも一緒に埋葬されていました。

 聖トーマス教会は思ったより小さく、横にはバッハの立派な銅像が立っています。

 偶然、トーマス教会合唱団とオルガンの演奏会がその日4時からあると聞いて、急いで申し込むと席がとれました。夜にはメンデルスゾーン記念ホールでのライプチヒ弦楽四重奏団の演奏会に行く予定でしたが、まだ十分時間がありました。

 トーマス教会合唱団(Thomanerchor)は、市内最古の音楽団体です(1212年創設)。その歌声はまさに天使の歌声!(^^)! 教会の空間に響いてとてもきれいでした。曲はもちろんバッハのカンタータが中心でした。  

 聖トーマス教会の音楽をたっぷりと堪能して、8時開演の弦楽四重奏を聴きにゲバントハウスのメンデルスゾーン・ホールに向かいました。

 夜で暗かったのですが地図を頼りになんとかわかりました。かなり早く着いたのですが、すでに会場には担当者がいて、案内してくれました。「どこから来たのですか?」「日本からです」「おお、それはありがとうございます。それでは一番前の真ん中にお座りください」ということで最高の席に案内されました。こんなに間近にコンサートで座ったことはありません。演奏者から2メートルくらいの席です。 今夜のテーマは 「ライプチヒ弦楽四重奏団 週末の室内楽の夕べ」 と題して、曲目は以下の通りです。

アマデウス・モーツアルト 弦楽四重奏 KV465
アンドレアス・ロムベルグ 弦楽四重奏 NR.2  
フランツ・シューベルト   弦楽四重奏 D804 (ロザムンデ)  

演奏者は  

ヴァイオリン:Stefan Arzberger  
ヴァイオリン:Tilman Buening  
ヴィオラ  :Ivo Bauer  
チェロ   :Matthias Moosdorf 

ライプチ弦楽四重奏団の当日の入場券

 ライプチヒ弦楽四重奏団は1988年にあのフルトヴェングラーで有名なゲンバントハウス・フィルハーモニーの中から選りすぐりの四人によって結成された弦楽四重奏団なのです。 僕はゲバントハウス・フィルのコンサートを聴きたいなと思ってインターネットで調べたところ、この近辺の日程では演奏会がなくて、弦楽四重奏があるのを見て予約したのです。それも非常に安くて、15ユーロ、日本円に換算して1600円弱という金額でした。世界的な弦楽四重奏団の演奏がです。楽しみにしていました。しかも一番前に座らせてもらったのですから。


 演奏は思った通りに素晴らしいものでした。まるで僕のために演奏してくれているかのようです。一番前の真ん中ですから前に観客がいないのですからそう思うのもしかたありません。やはりこの迫力と音質は感動ものです。我を忘れる夢のような2時間があっという間に過ぎました。タコ大満足。ライプチヒの人たちは幸せだなぁと思いました。こんなに素晴らしい世界的な演奏者たちの演奏会を気軽に、安価な金額でいつも楽しめるのですから・・・。

 帰りにあまりの空腹だったので、ゲーテゆかりの地下酒蔵、アウアー・ケラー(Auer Keller)で軽く食事をとることにしました。

 この酒場はゲーテの時代(18世紀中ごろから19世紀初めころ)からライプチヒ大学の学生たちに愛されて現在に至ります。ゲーテの代表作「ファウスト」にも登場します。こんなに古い酒場は日本にはありません。

 ケラーですから地下の酒場なのですが、1階の店の入り口にメフィストがファウストを酒場に誘っている場面の銅像があります。(写真左)

 ケラーに来たからにはビールを注文せねばならないのですが、ここの名物のオニオンスープを注文し、バンベルグのラオホビールはないかと聞いてみました。

 ここはライプチヒだからライプチヒのビールを飲めといって笑うので、では任せるからうまいのを頼む、と言うとヤボール「Jawohl」(もちろん)との返事。なかなか気持ち良い、フロア主任風のいい男です。早速運ばれてきたのが、樽から注がれたばかりの、まさに生ビール。「ウ~、うまいっ!」あまりのうまさについ声に出てしまいました。冷たくてすっきりしたビールは空腹のタコの五臓六腑に沁みわたります。続いて出たオニオンスープ。2か所のコンサートを優先させて、いつもの昼食兼夜食の食事をとらずいたので腹ペコタコです。これも熱くてうまいっ。親切な主任にチップをはずみました。


 こうして、今日はかねて念願であったニーチェの故郷と墓を訪れることと、バッハの聖トーマス教会と墓を詣でることが実現し、ライプチヒ滞在の大きな目的を果たせました。そして聖トーマス教会のオルガンと合唱の夕べのコンサートを聴くこともできて幸せ!。更に、素晴らしい弦楽四重奏を真ん前で楽しみ、さらにさらにゲーテのファウストゆかりのケラーでおいしいビールとオニオンスープを楽しめるなんて、天気も良くて大満足、最高の一日でした)^o^(

2013年1月8日火曜日

佐藤 晃 & 富平 園子 二人展を観て 

 
 彫刻家の佐藤 晃さんから陶芸家で奥様の富平 園子さんと、展覧会開催(1月5日から19日まで)のお知らせをいただきました。会場のGALLERY KINGYO(東京都文京区千駄木2-49-10 電話050-7573-7890)は、私の好きな谷中に近い下町の奥まった一角にあります。さっそく訪れると、佐藤晃さんが笑顔で出迎えてくれました。(写真は佐藤さんと作品)  

  彫刻・石彫は好きです。僕はエジプトからギリシャ、ローマ、そして先日もバンベルグの騎士像やナウムブルク・ドームのウタとエッケハルト像を見にドイツまで行ったくらいですから、良いものでしたらどこまででも観に行きたいと思っています。ただ素材が重いので、コレクションの対象としては無理なところがあり、現在はガンダーラの小彫刻程度で我慢しています。  



 今回の佐藤さんの石彫刻はかなり大きな作品で、独特の趣、というか雰囲気を持っています。石の抽象作品としては珍しく、非常に親しみやすいです。観た瞬間に僕が作品から受けた印象は、古生代の生物、特にウミユリです。海にゆらゆらと触手を動かして餌をとるウミユリは実は植物ではなく動物なのです。地球上に最も早い時期、2億5000万年前の世界に発生した動物で、ヒトデなどによく似た生物です。僕はウミユリの化石を持っていて、観るたびにその美しさに引き込まれます。それと同種の雰囲気を佐藤さんの彫刻に観たのです。(写真)
 抽象芸術は観た者側の想像力や感性に評価がゆだねられるという特質があります。評価するというとおこがましいのですが、自分にピッタリの感覚であるか、どうかです。その良い見本が京都の「竜安寺石庭」です。あの石の並びをどう観るか、そこに何を想うか、観る側の感性で、感じ方もかわります。それが禅宗的世界観ともいえます。ですからどのように感じるか、それは観る側次第ということになります。  


 佐藤さんの作品には、その魅力的な人柄が表れています。石でありながらどこかに柔らかさを持っており、親しみやすさ、生命力を感じさせるのです。佐藤さんの作品は東京都立総合芸術高等学校の中庭に展示されるという栄誉を受け、芸術家を目指す若い高校生の皆さんが、毎日彼の作品を観て、そこから刺激と創造の力を得ているようです。


雨引きの里と彫刻

東京都立総合芸術高等学校
佐藤 晃さんの略歴:  
1964年生まれ 日本大学芸術学部美術学科彫刻コース卒業
 同 芸術研究所彫刻専攻修了後、多くの展覧会に出品。

  在学中から数多くの個展、美術館主催の展覧会、国立博物館柳瀬荘のアート・教育プロジェクトなどにも出品され、その活躍の場を広げています。特に僕は栃木県益子に近い「雨引きの里での彫刻展示」に着目しています。ここでは大自然の中に作品を展示するので、その真価が問われます。大自然に堂々と対峙できるか、溶け込むか・・・いずれにしても中途半端であったり、ふざけた作品は大自然を背景にして立ち続け得ないものと思います。歴史を経た古い民家を借景にしても佐藤さんの石の作品は不思議に合うし、学校の中庭にも合う。それは作品そのものに、進化し続ける生命の力があるからだと思います。

雨引きの里と彫刻

ポラリス ジ・アートステージ
  地球の遥かな時が創り出した石、その石を掘り出して、そこに自分の時を刻む。そしてまたそこから永遠の時がはじまる。石の彫刻って素晴らしいなァ~、大きな家があったら、佐藤さんのこの作品を毎日見ながら暮らせたらいいだろうなァとつくずく思いました。
 ぜひこれから注目していただきたい彫刻家です。

 奥様の富平園子さんも愛らしい陶芸作品をショーケース出品されています。日常的に使える女性らしい、やさしい感性の作品で、ぐい飲みから皿、鉢類までの手軽に使える作品です。 園子さんは子供が大好きで、井の頭公園近くの自宅で陶芸教室を開いています。小さな子供から大人までたくさん通っています。



 お母さんと2代にわたり個性を大切にする私立明星学園で学んだ園子さんは、その後、ご主人と同じ日本大学芸術学部美術学科彫刻コースに進学。そして現在はまさに多くの子供たちの個性を引き出す焼き物教室を実践されているのです。園子さんは自分が受け継いできた人間としての永遠性、すなはち個性という永遠性を、いま一人一人の子供に植えつけているのです。それはいつか子供たちの心に大きく花開き、また次の世代に引き継がれて行くことでしょう。
  芸術家一家であるお二人のこれからのますますのご活躍を期待しつつ、新年最初の展覧会を拝見いたしました。  

2013年1月3日木曜日

カフカ(Franz Kafka)の散歩道 Steglitz公園


カフカと同時代のプラハの城の遠景とカレル橋
フランツ カフカ(Franz Kafka)
20世紀を代表する世界的作家。チェコのプラハに生まれる。小さいころから繊細な性格のカフカは、生粋の商人で経済力のある父との葛藤に悩み、それが抑圧された時代とプラハという迷路のような古都を背景に、独特の文学を形成した。当時、死の病とされた結核に侵されたこともその文学に大きな影を落としている。代表作に「審判」「城」「変身」「アメリカ」「死刑宣告」「父への手紙」などがある。1884年~1924年


 2012年11月4日、ベルリン・ボーデ博物館通りの古本と骨董市で「カフカ評伝(Franz Kafka)」著者Klaus Wagenbach を見つけて買いました。(ボーデ博物館通りの古本と骨董市については、日本骨董学院ホームページhttp://www.kottou-gakuin.com/から愛知県共済のインターネット連載講座「西洋アンティーク紀行」ベルリンの骨董市めぐりをご覧ください)


1923年か死の年1924年のカフカ
僕が若き日に熱中して読んだカフカ。その晩、早速ホテルでその評伝を読むと、カフカは、死の8か月前に最後の恋人、ドーラ・ディアマント(Dora Diamant)と生涯で一番幸せだったひと時をベルリン郊外のステーグリッツで過ごしたと書いてありました。彼は肺結核で僅か40歳の終わりで亡くなっています。僕は、ドーラのことは知っていましたが、カフカがステーグリッツにある公園の近くに家を借りてこの女性と一緒に数か月住んでいたことを初めて知りました。カフカが最晩年に好んでドーラと散歩した場所、ステーグリッツ公園ってどこにあるのだろう?今、ちょうどベルリンにいるのだから、何としても探して行かなくてはと思いました。明くる朝早く、僕はベルリン中央駅に向かいました。作者の生誕地、好み、育った環境、生活した街を知れば、その作品の生まれた背景や、発しているイメージをかなり理解できるようになるからです。
 急に思い立ってこうした行動ができるのが、自由な一人旅の良さです。

Dora Diamant
HBF(ベルリン中央駅)のインフォメーションで、ステーグリッツ公園への行き方を尋ねました。簡単にわかると思っていたら、大間違いでした(・・;) 地下鉄の駅にSteglitzステーグリッツという駅があるから、そこのことではないか、そこに行ってみたらどうかとだけ言われました。そこで8駅はなれたその駅まで行ってみたものの、この公園のことについて尋ねても誰も知らないのです。困ったタコはいろいろ方向を見定めて、なんとなくビルの少ない方にカンで歩いて行きました。足のマメが前日の4か所の骨董市めぐりですっかり悪化していましたが、どうにか絆創膏でしのいでいました。しばらく痛い足をかばいながら進むと、男性のお年寄りが歩いて来たので話しかけてみました。「その公園はこの先をまっすぐ下の方へいくとあるよ」と言うと、去ってしまいました。やはり方向はタコのカンが当たっていました。でも足が痛いので、おじいさんの距離感が問題です。そこで更に先の道路の交差点あたりで、ベビーカートを押している3人のお母さんたちに尋ねてみましたら、その中の一人が知っていて、詳しく道を教えてくれました。


Stadtpark Steglitz 0.4キロの標識を見つけたときは、うれしかった!
 

こどものころから大好きな石神井公園とよく似た雰囲気があります。
 

やっと入り口を見つけました。とても静かな公園で、戦火を避けて昔の様子を今に伝えてくれています。大きな並木道もあり、自然の中に、近くを川が流れています。池もありとても黄葉もきれいでした。1914年の段階で、彼はベルリンを自分に最も好もしい街と考えていました。彼が散歩した季節もちょうど僕が訪れた11月頃です。僕が小さい時から好きで通っている石神井公園の三宝寺池周辺にとても似ていてうれしくなりました。鴨もいるし鳥たちもたくさんいます。カフカがベルリンに滞在できたのは死の約8か月前の1923年10月末から翌年、死の年の3月半ばまでです。病状が悪化した3月17日には、ドーラと叔父レーヴィそして生涯の親友マックス・ブロート(カフカの遺稿の大半を彼の死後、出版した最大の功労者)に助けられてプラハに戻り、その後ウイーンの森のドクター・ホフマンのサナトリウムに入りました。そこで6月3日、ドーラに看取られて亡くなっています。遺体はいつも去りたいと願っていたプラハに結局戻り、ユダヤ人墓地に埋葬されました。

ですからこのステーグリッツ時期のカフカはすでに体調も良くなく、長くは散歩できなかったと思いますが、11月から12月ころは一時的にせよ、すこぶる病状は良かったようです。このドーラと暮らした4か月あまりが、妹や友人に宛てた手紙からカフカにとって一番幸せな時期だったと推測されます。プラハから離れ、ずっと苦しんできた父親との関係からも、仕事への復帰ももはや絶望的といえる状況でした。しかしその一連の絶望感があらゆる社会的な葛藤からも完全に彼を解放したともいえるのです。ヒトラーの台頭するこの時期のベルリンは未曽有の超インフレでパン1個が2億2000万マルク(仮に1マルク100円と計算しても220億円)というとてつもないインフレの状態でした。この中を生き抜けたのはひとえに貧しいポ-ランド系ユダヤ人の家庭に育ったドーラの才覚としか考えられません。人生最後の安らぎのほんのひと時をカフカは最愛の地であるベルリンで、最愛の恋人と過ごせたのです。ドーラはカフカを愛し、彼の最期を医師と看取った一人です。

 この公園にはとても古い石のベンチがありました。(写真右)カフカはきっとこのベンチに少し疲れた様子で座わり、ドーラと言葉少なげに話していたに違いありません。タコもしばし彼らの脇に座って休憩しました。
 

公園の古い銅像

 カフカとニーチェとの出会い、バッハとマーラーとの出会い、そして古美術との出会いは僕の人生に大きな影響を与えました。どれも高校生だった1964年ころのことです。特に高校2年生の時のカフカの小説「審判」(原題:Der Prozess)との出会いは衝撃的でした。主人公であるヨーゼフ・Kをとりまく不思議な迷路のような虚構の世界のとりこになりました。以後大学ではドイツ文学科へ進み、カフカについては2年の時、ドイツ現代文学研究の志波一富教授の指導のもと、「変身」について論文もいくつか書きました。卒業後、26歳の時にはプラハのカフカゆかりの地をめぐり墓参もしました。今は若き日のなつかしい思い出です。今日もそんな若い当時の文学に埋没できた感覚に浸れてよかったです。 足がひどく痛いのによくここまでやったきたな~とつくづく思いました。


(カフカの冒頭の有名な写真は1923年から死の年の24年のものです。まさに死の影が見える表情です。その写真とドーラの写真、そしてプラハの写真はKlaus Wagenbach の Franz Kafka ,Ein Lesebuch mit Bildern,Rowohlt Taschenbuch Verlag.より借用しましたことを、ここにお断りいたします)