ロンドンでオリンピックが開催されました。いろいろな劇的な場面があり、スポーツってすばらしいなと思わせる場面や、みなさんもお気付きだと思いますが、外国選手の容赦ない反則とそれに気づかないのか、知らん振りしているのかわかりませんが審判の歯がゆい判定、違反の数々を見ているのが辛くなる場面もかなりありました。そうした意味で、今回のオリンピックはかつてのオリンピックでは見なかったさまざまな問題点を突きつけていると思います。
タコは毎日オリンピックを楽しもうと思っていましたが、それが難しいことを身をもって知らされました。思わぬ「疲労感」がともなうことを知りました。特に最初に放映された柔道。日本のお家芸とされた柔道を見ていて、すごく疲れました。
柔道の父である講道館を創設した嘉納治五郎は「精力善用」「自他共栄」を柔道の精神として唱えました。これはタコがまだ出版社に勤めていた頃に取材した、東大進学で有名な神戸の灘中学・高校の校是で、嘉納治五郎は灘中学・高校の創設者でもありました。当時の校長の勝山正躬先生からそのことを教えていただきました。純粋な精力を善いことに使い、自他共に栄える社会を築いてゆこうという高邁な思想です。この精力を養うのが柔道なのです。この姿勢は、自分だけが勝てば良いという考えとはほど遠いものです。まして相手を傷つたり、審判を買収してまで勝とういうようなことは、もともと当然のことながら柔道の精神にはないことです。
テレビを見ていた柔道でドイツに負けたアメリカの選手は両目から血を出して、包帯で頭をくるぐる巻きにしていました。何をされるかわからない試合。見るからに凄惨過ぎる戦いのありさまです。彼が判定で負けて戻る時に通路に泣いて崩れ落ちた姿をみたら、人生を有意義に生きるためのスポーツが人生の目的のための、人生を賭けた博打みたいな存在になっていると思えてきました。きっとそのアメリカ人選手には今後の豊かな人生と夢がもろくも崩れ去った瞬間なのでしょう。失意の内に更に通路に崩れ落ち、そこに伏すアメリカ選手の横を誇らしげに胸を張って通りすぎる勝ったドイツ選手。目を覆うべき姿でした。そこには戦った相手への思いやりや敬意は微塵も感じられませんでした。勝ったということだけの傲慢な姿勢のみが感じられました。自分だけ勝てば相手などは踏み台同然と思っているのでしょう。
また信じられないことですが、それは選手だけでなく審判にも該当することだったのです。今回のオリンピックではまじめな日本人選手は、審判のずさんな汚れた判定とその背景をなしているアメリカやヨーロッパの商業主義の犠牲になっているように思えました。柔道で見られた抗議、簡単に、それも審判全員の判定が正反対にくつがえってしまうジャッジ、あれは一体何なんなのでしょうか?実際に勝っていても、負けたと判定されるオリンピックとは何なんだろうかと思いました。彼ら審判には、長い選手の苦しく厳しい練習の日々への敬意など全くないのでしょうか?
前回北京のオリンピックの柔道でも、優勝候補の日本人女子選手は手を強くねじられて骨折の激痛に耐えかねて敗戦したといわれていますが、審判は観て見ぬふりをしたといいます。冬期オリンピックのフィギュアースケートの審査でも浅田真央が審判の判定に苦しみました。フィギュアにおいて、回転が「華」であることは誰もが認めることであるし、選手も高得点を目指して頑張るわけです。そのルールを改訂するとはどういうことなのか理解に苦しみます。ソフトボールも日本が勝つと、オリンピック種目廃止になりました。国が金銭を出さない日本は負けて、国家の威信をかけたり、日本には負けたくない国は金を惜しまないということがよくいわれます。まさにあの柔道の審判にはそうした不信感を感じさせました。審判には恥じもプライドも真剣さも感じられませんでした。見ていた日本の観戦者たちは怒りさえ感じたことでしょう。前回北京オリンピックで男子砲丸投げ2位の室伏選手は一位がドーピング検査で失格のために繰り上げ金メダルになりましたが、ドーピング検査ならすぐ結果はわかるのに、大会終了後に、それも日本に帰ってから通知がきたといいます。表彰台に上がる栄誉が最大のオリンピックの醍醐味なのに、その恩恵にはあずかれなかったのです。そこにも意図的な日本人排除のニオイがするように思います。選手のドーピングや新しい、今の検査にひっかからない漢方系筋肉増強剤への対応も今後のオリンピックの行方に暗い影をもたらしているといえます。
タコは体操団体戦を見てて、オリンピックが嫌になりました。男子体操団体戦でのこと、内村航平選手がこれから鞍馬をするため、気を引き締めて開始合図を待ってるのに開催国のイギリスの観客は自分たちの国のチームが快進撃しているため、ウィリアム王子やらが応援に来ていてうるさくさわぐので、内村はやりにくそうにしていた。あとで、あれで集中力を欠いたといっていました。他国の選手の演技中でも平気でさわぐ開催国のイギリス人は演技選手への思いやりや自分を厳しく見つめる騎士道精神も地に堕ちたなと思いました。その後、内村選手のその鞍馬で失敗があり、その失敗をめぐっての判定ミスまで出て、もうめちゃくちゃでした。最初体操男子団体4位の結果表示を見た日本選手は呆然自失の状態でした。日本の監督が内村選手の鞍馬で倒立の得点が抜けていると厳重に抗議したら、審判団はビデオを見たり、検討したりして、渋々といった感じで長い時間をかけて修正しました。その結果4位から銀メダルに変更となったのです。後味の悪さだけが残りました。
その後味の悪さを払拭してくれたのが北島康介です。3連続金メダルを狙った100メートルでも破れ、同じく200メートル平泳ぎに賭けていたと思います。そこでも後輩の立石にタッチの差で負けて4位でした。その立石に「よくがんばった。おめでとう」と声をかけた。すがすがしかった。北島選手はすばらしいと思った。金メダルをとるとすぐ逃げるというか、引退する選手が多い中、チャレンジ精神の北島選手の12年はすごいです。これは以前のブログに書いた時と変わりません。そちらも読んでください。そのご褒美の400Mメドレーリレーの2位銀メダルでした。北島選手ご苦労さま!というより、自分への挑戦、お疲れさまといいたい。自分への挑戦はこれに止まらず、終生続きますから、これからは肉体への挑戦ではなく、円熟した人生に向けて頑張って・・・といいたい。同僚の立石選手をはじめとした仲間の選手も北島選手に敬意と尊敬をはらっていて素晴らしいと思います。
サッカーの日本対モロッコの試合を見ていて、モロッコの目に余る突き倒す妨害にも審判は注意の宣告もしませんでした。一番ひどいのはボクシング。日本の選手がスリップ気味で倒れたらカウントを数え、日本人が相手を連打して倒すとスリップダウンみたいにカウントしない。それが6回も同じことが続く。あげくの果ての判定負け。信じられない光景です。あれでは審判が買収されているといわれても仕方ないでしょう。オリンピック・ボクシング協会では抗議を受けてボクシングの常識ではあり得ない再判定とその審判員の追放を行ったが、オリンピックの威信もなにもこれでは台無しです。その清水選手はのちに銅メダルをとりました。
バトミントンの無気力試合も見ましたが、これはあからさまでひどすぎます。中国、韓国、インドネシアなどの選手を出場停止としたといいますが、当然です。該当各国は世界の手前、選手を追放処分にしたが、これも監督の指示以外の何物でもないでしょう。引退の選手も出たそうですが、問題です。すべて勝敗が人生を変える金につながっているからなのです。不況も影響しているでしょう。世界の失業率は日本の比ではありません。選手も必死なのはわかります。だからといって不正をしてよいということにはなりません。女子サッカーの佐々木監督がふともらした、移動距離の問題から引き分けに持ち込むので、ゴールしないようにという指示も真摯な姿勢とはいえませんね。神が日本の女子サッカーを見放さなければいいんだけどなぁと思いましたが、銀メダルとれて、よく言われる「運」だけでなく本当に実力があることが証明されました。
今回の日本勢のメダル数は過去最大の38個で、金7、銀14、銅17でした。私はチーム力では女子卓球、女子バレーボール、女子サッカー、男子水泳400Mメドレーリレーがすばらしかったと思います。すべてを見た訳ではありませんが、なべて日本の選手はフェアーで、見ていて清々しく、すばらしいと思います。
男子体操の内村選手は責任感がひときわ強く、自分に負担をかけすぎたのではと思いますが、それだけに人間的にはとてもすばらしい青年です。それに比べて韓国サッカーの竹島問題の選手は最低ですね。韓国の大企業であるサムスンはオリンピックIOCに何十億の多額の献金をしていますから、この問題はメダル剥奪とはならず、うやむやかメダル授与になると思います。あってはならないオリンピックがそうした商業主義になるので、日本のような真面目な国に報われない選手が出るのです。しかしやましいことをして取るメダルより、崇高な精神を重視する選手であってほしいと思います。自分の汚れなき精神が、今後の人生には最も重要だからです。
古来、オリンピックはギリシャでオリンポスの神々に捧げられた競技で、戦争をしている間の国々でも、戦いを中止して競技に参加した祭典といわれます。ギリシャの神々は、きわめて人間くさく、とても神とは思えないくらいですが、私はギリシャの神々は人間が神に進化してゆく過程のすがたのように思えます。そうした観点からみると、オリンピックは神々の候補生の誕生の場と考えることもできます。美術史的にみれば、ギリシャ彫刻の理想を求める姿勢は完璧と言って良いほどです。ミロのヴィーナスも完全なプロポーションです。有名な「ダビデ」にしても、「円盤を投げる男」にしても完全な肉体美を追求しています。ギリシャ人にとって、最高の姿はやはり今で言うメダリストの優れた肉体美なのでしょう。月桂冠を載せられた勝者は神に比せられた、といってもいいのです。最高に美しい肉体美、それが勝者の肉体美なのです。古代オリンピアの競技種目はすべて実際の戦いそのものであったのです。特に訓練された兵士の代表者が「選手」だったのです。最高の肉体は一流の兵士であり、それが選手であり「美」の基準ともなり、最後は伝説的な英雄、神々に列せられたのではないかと考えられます。100メートル、200メートル、400リレーで世界新記録を達成したウサイン・ボルトがこだわる「伝説的存在」になれたということは2連覇できて「神」そのものにさらに近づけたという意味であると思います。
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