2012年12月31日月曜日

年越し蕎麦

 2012年最終日、タコは久しぶりに両親の墓参りに行きました。ニュースでは帰省ラッシュによる交通渋滞が伝えられていたのですが、意外にも道路は空いていて、郊外にある墓地まで気持ちよくドライブできました。12月に入ってから、「マヤ歴が予言する2012年12月21日人類滅亡説」とやらがまた面白おかしくマスコミなどで取り上げられていましたが、そうでなくても世界的に不安定な情勢の続く一年でした。それでも、またこうして静かに墓を掃除してお参りできるのだから、ありがたいことです。

 今年は久しぶりにひと月以上かけてヨーロッパを旅行し、来年に向けてしっかりと充電もできました。そう言えば、ドイツやフランスではいろいろな作家や音楽家、哲学者の墓地にもたくさん行きました。お墓にも個性があり、印象に残るものも多かったです。一般人のお墓では、故人の写真を陶板に焼き付けたものがあり、デザイン的にはいまいちですが、興味をひかれました。アルジェリア戦争への出兵前か休暇中に撮ったらしい意気揚々とした軍服姿の色男だったり、当時の流行の最先端だったフラッパー風のドレスを着た美しい御嬢さんだったり、いかにも70年代なもみあげのオヤジもいれば、まだあどけない幼子もいて、全く関係のないタコも、しばし立ち止まっては「う~ん・・・」とあれこれ想像にふけってしまいました。有名人のお墓も感慨深いものがありましたが、それはまた別の機会に書きたいと思います。

  両親のお墓詣りを無事に終えたらお腹が空いたので、帰り道の蕎麦屋で昼食をとりました。まぁまぁの味でしたが、タコはやっぱり中野の「さらしな」が好きです。2012年5月1日の投稿に書いた店です。今年は最後の28日まで名古屋への出張があったのですが、東京での仕事納めの日に「さらしな」で、大好きな蕎麦掻きをいただきました。石臼で引いた北海道産の粉を蕎麦湯で練って茹で、葉形にしたものを蕎麦湯に浮かべてくれます。上に載っているのはゆずと三つ葉。一口大に箸でちぎった蕎麦掻きを、汁に浸して口に運ぶと、優しい温かさと一緒に蕎麦そのものの香りと、薬味の爽やかな香りが広がって、ほっこりした気分になります。

タコ推薦・蕎麦掻き 950円

  ざる蕎麦ももちろん美味しいですが、温かいお蕎麦なら、「地獄」も美味しい。ホウレンソウや鰹節、海藻、そして鶏卵が乗っていて混ぜていただくので、ボリュームがあります。

地獄 950円

  最後は蕎麦湯を飲みながらお腹が落ち着くのを待って、店を出る頃には、もう行列ができていました。

  


2012年12月29日土曜日

ベルリンの朝の散歩


ドラゴンを退治する聖ゲオルギウス
ベルリンについてしばらくは足慣らしのため、市内を歩くことにしました。時差の関係から、10月29日午後1時に成田を出発して、モスクワ経由で同じ日の午後8時45分にベルリン・シェーネフェルト空港に到着しました。旧東ドイツに属する空港で、いかにも質素でガラーンと広く、それが閑散とした感じを与えます。ホテルはやはり旧東ドイツのアレキサンダープラッツという駅から歩いて3分の便利な場所です。多くの地下鉄(Uバーンという)の出発点や通過点ですので、レストランやビストロもたくさんあって便利です。カリーヴルスト(Currywurst)の美味しいお店には、顔馴染みになるほど通ってしまいました。ヴルストwurstとは、ドイツ語で、ソーセージのことで、これはパリッとあぶった大き目のソーセージにカレー味のトマトケチャップをかけた軽食です。
Spree川から見るベルリン大聖堂
10月末の東京はまだ暖かくて,街路樹の葉も色づかないうちに旅立ったのですが、ベルリンに着くと、そこはもう黄葉の最後でした。道を覆う落ち葉はとてもきれいです。ベルリンの秋の美しさは有名で、ぜひ一度来てみたいと思っていました。私は大学生の頃、ドイツ文学を専攻したこともあり、一時ドイツ留学を夢見ていろいろな大学のパンフレットを取り寄せたことがありました。その中にベルリンのフンボルト財団の大学もありました。それはあくまでも夢であり、経済的な問題であきらめて就職をしましたが、もし留学できていたら人生はまったく変わっただろうなと思いながらこの大学のあたりの黄葉をながめました。
 ロンドン同様、ドイツもこの時期、雨がシトシト降り、雲が低く垂れこめどんよりとしています。傘をさすほどでもなく、だけど何もないと頭が濡れて寒い。そこで雨除けの鍔付帽子を一つ買いました。撥水加工されたコートを着て行ったので、傘なしで万全です。帽子文化の意味がわかったような気がしました。


かつての水運のためか、ベルリンは川の多い街です。その川沿いに歩くのがなかなかイイ感じです。ベルリン名物のポンポン船が行き来して、とても風情があります。雰囲気が良いせいかレストランが多く、ベルリン子の夜のたまり場みたいです。そうしたにぎやかな場所で一人飲んだり食べたりは今回は気が進まなかったし、レストランでは一人前でも食べきれないほどの量。ビールもドイツ人にはかないません。一人旅の異国の地で酔いつぶれて運河にでもころげ落ちては大変ですから、タコはもっぱら街の屋台風のソーセージ屋さんやテイクアウトの店で好きなものを適量買って、ホテルで食べ、飲みました。すぐベッドにコロンとできます。一日中歩き回って疲れた身には、その方が静かで気楽です。シャワーを浴びてさっぱりすると、東京にいる時には考えられないほどの早い時間に眠りに落ちました。
 そのようなわけで朝はやたらと早く目覚めて、時間を持て余しそうでした(^O^;) 早めにホテルの食堂に行き、ビュッフェの朝食をたっぷりとると、昼時になってもお腹が空きません。この季節は日暮れが早いですから、ランチ抜きで見学に集中し、夜食はこのようにテイクアウトしてホテルでとりました。この度ではその後もほぼこの2食体勢を貫きました。写真はアレキサンダープラッツ近くのデパートの食品売り場です。ここには何でもありますが、アツアツのソーセージはインビス(imbiss:屋台風飲食店)にかぎります。
ガレリア・カウホーフのデリカテッセン
ケーキもボリュームたっぷり!
岩塩のきいたプレッツェル(中央)が美味
CURRY36はベルリン屈指のカリーヴルストの人気店

新旧建築様式が混在する独特の街並み
ベルリンでは毎日たくさん歩きました。歩きすぎて足裏にマメがたくさんできたほど。本当に痛くて閉口しましたが、歩くことによって地図が頭に入ります。日曜日には骨董市が4か所開催されるので行ってみました。蚤の市(Flohmarkt)という名前ですが骨董品もかなり出ています。なんと楽しいところだろう。でも、マメが2個つぶれた激痛に耐えかねて薬局に駆け込みました。最新式の大きめの絆創膏を勧められ、すぐ貼れといわれ別室に案内さたのでビックリ。しかしその場で貼ったらかなり痛さは軽減されました。さすが医学のドイツと思ったら、その絆創膏は実は日本人の発明らしいです。やはり最近は日本か~!と大いに誇りに思いました(^-^)。多めに買い足したのが正解でした。気ままに歩き回りたいタコですから、この旅の最後までこの絆創膏がどれほど役に立ったことかは言うまでもありません。履き心地が良いと思っていたスニーカーが意外に痛かったので、廃棄しました。もう一足、ウォーキング・シューズを持って行って良かった。そちらに履き替えたら、柔らかくて楽になりました。


化石を売っている店のウィンドウに映ったニコライ教会
今回、ベルリンその他ヨーロッパのアンティーク・マーケットについては日本骨董学院のホームページの表紙から愛知県共済のインターネット文化講座にアクセスしていただきますと2013年1月から12回連載する予定の「西洋アンティーク紀行」をお読みいただけます。ヨーロッパの骨董市は非常に面白いので、ぜひそちらもご覧いただければと思います。

 私の滞在するホテルから歩いて10分くらいのところに通称、博物館島があり、そこに主だった美術館、博物館が集中しています。ベルリンの大きな目的はNeues Museum(新博物館)所蔵のエジプトの「王妃ネフェルティティ胸像」とAlte Nationalgalerie (旧ナショナルギャラリー)所蔵の私の大好きなカスパール・ダヴィッド・フリードリッヒの一連の名画を鑑賞すること、ペルガモン博物館の神殿を詳細に観ること、そして4か所の骨董市をめぐること、最後に第二次世界大戦後のドイツの負の遺産を徹底的に直視することでした。

2012年12月27日木曜日

初めてのベルリン

今回の旅行は10月末から12月始めまで、合計で35日間になりました。時期的な問題、到着がベルリンという条件のもとに航空会社を選ぶとロシアのアエロフロート航空にならざるを得ませんでした。運賃の安さも条件の一つです。というわけで、ロシアのシェレメチボ空港でトランジットしたのですが、空港は新しく、案内掲示などもしっかりしていて問題はありませんでした。事前にインターネットで見たいろいろな情報の中には、旅行者がパスポートコントロールに殺到して列をなし、恐ろしく時間がかかるから、飛行機から降りたらとにかく走りなさい、などと書かれていたものもあったりして、ちょっとドキドキでした。しかし、改善されたらしく、実際は特に不便は感じませんでした。ただ、搭乗直前にゲートが変更されることがあるのが日本と大きく違う点です。一応ロシア語と英語でアナウンスが流れるのですが、うっかりしていると聞き逃しかねません。ですから、電光掲示板からは目が離せません。これはドイツやフランスの鉄道、飛行場でもすべて同じですから、日本の交通機関は世界に類を見ない正確さで運行されていることに改めて驚異とありがたみを感じます。それから余談ですが、アエロフロートはフライト・アテンダントが美人ですね。飛行機の中と空港で見た限りではありますが、男はちんまりして大したことない一方、女性は白系ロシア美人が多かった、というのがタコの感想です。

 こうして、シレメチボ空港は余裕で問題なく通過できました。いよいよベルリンのシェーネフェルト空港。ここも元ロシア領で発展が遅れたせいか、閑散とした感じでした。案内所(iのマーク)でウエルカムカードを買って、列車に乗り込みます。この列車が頑丈な電車で、ものすごく重そう。ウエルカムカードは便利なもので、ベルリン近郊のすべての交通機関が3日間乗り放題。切符を買う手間が省けまるのでお勧めです。ドイツならどこの都市のインフォメーションにも観光客用に販売しています。これを見せれば飲食店から劇場、博物館などはかなりお得になります。
(写真は旧東ドイツ・アレキサンダープラッツ駅近くのホテルの部屋から見た電車線路とベルリンのシンボルのテレビ塔)

 僕は小さいころから父の蔵書にあったひげ文字の戦前のドイツの写真集に親しんできました。ビスマルクとかヒンデンブルクの時代の古きよきドイツ。初期の飛行機や飛行船。こうした子供には異次元の写真集はタコの最初の「愛読書」でした。ですからドイツにはなにか縁を感じます。高校ではドイツ語を学び、大学もドイツ語で受験し、専攻もドイツ文学科へ進学しました。そんなこともあり、ドイツやヨーロッパは幾度も訪れましたが、ベルリンは今回が初めてです。東西分裂の悲劇に見舞われ、ドイツの首都でありながら発展が遅れ、交通の便など観光の為の環境整備も遅れていたので、今まで来る機会がありませんでした。そんなベルリンに到着した時は、「やっと来れた!」という感じでした。自分の人生の「穴」を埋める意味合いも大きいと感じていました。

 ベルリンはヒトラーの総統司令部があったので、徹底的に爆撃され、戦闘で破壊されました。ヒトラーについては、面白い映画があります。2004年公開の「ヒトラー最期の12日間 Der Untergang」という映画です。ヨアヒム・フェストによる同名の研究書と、アドルフ・ヒトラーの個人秘書を務めたトラウドゥル・ユンゲの証言を土台とした脚本です。この個人秘書の証言の中立性については疑問視される点もあるようですが、稀代の独裁者を一人の人間として綿密に描き出すことにチャレンジしている点で評価できる映画です。ヒトラーを演じたドイツの国民的俳優、ブルーノ・ガンツがとにかく強力です。歴史上の人物を主人公に据えた映画となると、相応の俳優がキャスティングされ、その力量を存分に発揮した見ごたえのある作品が数多くあります。王族であれ、ギャングであれ、良くも悪くもその人物がどのように形成されていったのか、観る者を納得させる演技と筋立てになっているのが常です。しかし、ヒトラーを描くとなると、同情や共感を呼ぶような演出は、一切許されません。その不気味なカリスマ性で群集を沸かす、ナチスの党大会での演説の場面なども使われていません。息苦しくなるような威圧感を漂わせつつ、最期の12日間に煮詰まって行く狂気を滲ませるブルーノ・ガンツのヒトラーには、まるでドキュメンタリーのような凄みがあります。「この手の映画はヘビーでちょっと・・・」、と言っていた友人も、さわりだけ観るつもりが、最期まで引き込まれてしまったそうです。

総統司令部の地下には周囲すべて3メートルの鉄筋コンクリートで固めた巨大な地下室があり、そこからヒトラーは命令を出して全軍を指揮していたそうです。映画は、ほとんどこの地下壕で展開されるので、その閉塞感とブルーノ・ガンツの濃さが相まって、見る側も消耗していきます。とうとう追い詰められたヒトラーは前日に結婚式をあげた愛人、エバ・ブラウンと自殺して、庭でガソリンで焼却させます。ブランデンブルグ門の近くに首相官邸と総統司令部がありましたから、その場所はおおよその見当はついています。ただ、どの地図にも、案内書にもその地下壕については何一つ掲載されていません。ドイツ政府はヒトラー崇拝熱やネオナチの台頭を恐れているのでしょうか。その総統司令部跡を探すのも今回の目的の一つでした。

(写真はベルリンの美しい晩秋のようすです)  

2012年12月26日水曜日

映画「オーケストラ」と放浪の旅の始まり


 最後にこのブログに投稿してから、アッという間に二月以上経ってしまいました。
 かねてより、11月は色々と取材や研修の為にヨーロッパに行く予定を立てていたのですが、そのせいで10月は寝る間もないほどの忙しさでした。

 
 それまで、時間に余裕があるとつい映画を観たりしていたのですが、その中で娘に勧められた「オーケストラLe Concert」というフランス映画は、なかなかおもしろかったです。2009年の作品なので、DVDで観ました。ストーリーの主役はロシアのボリショイ・オーケストラの元指揮者と団員達、そして美しいフランス人ヴァイオリニスト(メラニー・ロラン)。ブレジネフ政権時代の反ユダヤ政策でパージされたユダヤ人や親ユダヤ団員達が、生活の為に音楽とは無縁の仕事でかろうじて生計を立てている様子から始まります。ある時、フランスのシャトレ劇場からボリショイ・オーケストラに演奏依頼のファックスが届きます。現役担当者の目に触れる前にそれを手にした元団員が、とんでもないことを思いつくのです。昔のオーケストラ仲間を集めて、現役のボリショイ交響楽団になりすまし、フランスの一流劇場で演奏するという計画。しかも、フランスの人気ヴァイオリニストを指名して。30年近くも演奏から離れ、社会の底辺に追い込まれていた団員達ですが、あらゆる無理難題を乗り越えてフランスにたどり着き、見事にこの無謀な計画を実現させてしまいます。その過程もおもしろいのですが、ラストを飾るのが指揮者がこの曲を絶対に演奏したい、と執拗にこだわった、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35第一楽章です。この曲に、フランス人の若い女性ヴァイオリニストと、ボリショイ交響楽団を結ぶ悲しい過去と夢の実現が秘められているのです。

 
 これはもちろんフィクションですが、現実にも政治的な理由で抑圧されたり迫害され、苦労した人はたくさんいるでしょう。今も過去のことではないかもしれません。この映画では、そうした様子を、おおらかなユーモアに包んで描写しています。ロシア人気質や、ロシアならではの問題点などもコメディーに仕立てています。例えば、ロシアで飛行場に向かうシーンでは、待てど暮らせどバスが来ないので、団員達がマネージャーにちゃんとバスを手配したのか問い詰めると、「バスが遅れて迎えに来ることを見越して、実際より早い時間に来るように指定しておいた」と言います。そうか、ロシアではこれくらいしないとだめなのかな。そう思って観ていると、結局バスは来ない。これ以上待つと飛行機に間に合わない、ということで団員達が楽器など重い荷物を持って延々と歩いて飛行場に向かう、という展開です。先にバス会社に金を払ってしまったから来ないのだという意見も。このあたりがロシアらしくておもしろい。こんなドタバタの繰り返しで、一度もまともに練習やリハーサルすらできないのに、30年ぶりのいきなりの本番では見事な演奏に・・・というのはいくら映画でもむりやりすぎやしませんか?という方も是非この映画をご覧になってください。クライマックスの演奏シーンには本当に感動しますから。僕もこんな風にバイオリンが弾けたらなぁ、と思ってしまいました。因みに、フランスではこの映画の公開後、好きな作曲家No.1にチャイコフスキーが選ばれ、この楽曲を収めたCDも売り上げNo.1になったそうです。

 
 この映画のラデュ・ミヘイレアニュ監督は、ルーマニア生まれのユダヤ人。チャウシェスク政権下から亡命後、フランスで映画の勉強をして監督になったそうです。そして、謎のヴァイオリニストを演じるメラニー・ロランもやはりユダヤ系で、おじいさんはナチスの迫害を受けたそうです。かつてのナスターシャ・キンスキーを彷彿させます。そういえば、彼女は「イングロリアス・バスターズ」にも出ていました。監督のクェンティン・タランティーノは、ナスターシャ・キンスキーにこの映画への出演を依頼をしたけど実現せず、結果的にその役はダイアン・クルーガーに与えられたのですが、ナスターシャのイメージをメラニー・ロランに見出していたのかな、などと想像してしまいます。「イングロリアス・バスターズ」でのメラニー・ロランの役どころは、ナチスに目の前で家族を殺され、唯一生き残ったユダヤ系フランス人のショシャナ。復習に燃え、映画館の女主人となり、ナチの将校達を映画館もろとも焼き殺す計画を立てます。真っ赤なドレス、メラメラと燃える映画館のセルロイドのフィルムがなかなかエグイ演出でしたが、彼女の楚々とした風貌との対比が印象的でした。「コンサート」でも情熱や悲しみを秘めたクールなヴァイオリニストをまた違った形で演じています。

 この映画を見ていた時はまだ自分がよりによってエアロフロートに乗ることになるなんて、思ってもいませんでした。ところが、僕はまずベルリンに行きたかったのに、直行便はないし。他のエアラインでは乗継時間に無理があり・・・結局、希望した日程と時間的余裕という条件を満たしたのは恐怖のエアロフロートだけでした。僕の調べた限り、エアロフロートは現在日本に営業所がないみたいで、ウェブサイトを見ても、問合せや連絡先にシンプルにロシアの電話番号が記載されているのみです(・・;)。乗り換えのモスクワ空港は電気があまりついてなくて、薄暗いとか、いろいろ不安な噂を耳にしていたし、あの映画に出てきた光景をあれこれ思い返すと、少々心配にはなりました。しかし、他にチョイスはなく、10月末、タコはエアロフロートでヨーロッパ放浪の旅に出発しました。

2012年10月9日火曜日

Ben Kim  ピアノ・リサイタル

本人サイン入りBen Kim ピアノリサイタルのプログラム
  このところ、二晩続けて武蔵野市民文化会館に行きました。一昨日の夜は、大ホールでバーデン歌劇場によるプッチーニのオペラ「トスカ」、そして昨晩は小ホールでベン・キムのピアノ・リサイタルを楽しみました。ここの小ホールは、音響が大変良いので、世界中のアーティストから愛されているそうです。ピアノはスタインウエイで極めてよく調律されて、音もとてもいいピアノです。チケットはいつも良心的な値段で、非常に濃い内容の演目を提供し続けているので、人気が高く切符はすぐに売り切れます。こんなことを書くと、ますますチケット入手が困難になりそうで、怖いですが、とにかくレベルの高さに感心します。

 ベン・キムは1983年、アメリカ生まれ。これまでにコシュチューシコ財団ショパン・ピアノ・コンクール優勝、ミュンヘン国際音楽コンクール優勝他数々の賞を獲得しています。タコは彼が舞台に登場する姿勢と歩き方で最初に好感がもてて気に入りました。適度の速さで颯爽と姿勢よく現れたのです。細身で一見神経質そうな青年ですが、繊細さと力強さを併せ持つ、素晴らしい演奏でした。昨晩は、バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ショパン、そしてドビュッシーの曲を聞かせてくれました。特にショパンやドビュッシーが彼には合ってると思いましたが、ベートーベンの「熱情」もなかなか良かったです。
 5歳でピアノを始めたので、てっきり裕福な家に生まれて英才教育を受けたのだろうと想像していましたが、そうでもないようです。両親が忙しく、一人で待っている時に退屈しないように小さなキーボードをリュックに入れてくれたのを気に入っていつも弾いていたらしいのです。その音楽を聞いた先生が彼の才能に気づき、ピアノのレッスンを勧めてくれたそうです。その後も音楽の専門学校ではなく、公立の学校で普通の学生生活を送り、高校卒業間際までピアニストになることを決めていなかったとのことです。ピアノに限定されずにのびのびと育ったところに彼の豊かな表現力の秘密があるのかもしれません。ドイツを拠点に世界中で演奏する今、彼の息抜きはなんとロッククライミングというのも面白いです。芸術劇場では、ガーシュウィンなどをオーケストラとともに演奏したそうですので、それも聞いてみたかったです。
 このフレッシュなピアニストの成長が楽しみです。記念に買ったCDとプログラムに丁寧にサインをしてくれ、握手を交わしました。いい記念になりました。ステージ上の神経質な印象とは異なる、笑顔の爽やかな青年でした。これから頑張ってほしいです。

 CDやレコードで、亡くなった巨匠たちの名演奏を聞くのも好きですが、若くてみずみずしい演奏家の奏でる響きに、音響の良いホールで浸るのも仕事の後の至福の一時です。
 

 

2012年10月7日日曜日

骨董市で再会したブリキの飛行機 B29

ブリキの飛行機

 日曜日、今日は予定変更で、久々に休日となりました。のんびりと骨董市を廻ってみようかと思ったのに、朝起きたらあいにくの雨!それもかなり強い雨でした。僕はどちらかというと「晴れ男」なのに。今日は仕事でないからか雨なのかな(・・;)。でも、富岡八幡骨董市と靖国神社は雨でもしっかり開催する市として有名ですから車で行ってみました。前回の富岡八幡では「李朝・ととや茶碗」の無傷ものを奇跡的に安く買うことができたので、きちんと写真を撮ったら投稿したいです。今回は、靖国神社について。

 東京九段の靖国神社骨董市を取り仕切る会主の菅野さん、通称「カンちゃん」の雨除けテントを張ったお店に寄ってみました。もともとこの業界の重鎮である菅野さんとは、僕がたまに顔を出す栃木の業者市でよく顔をあわせます。挨拶をして陳列品を見ていたら、ちょっとドキリとするほど気になったものがありました。「あれ?!なつかしいな~」と思って手に取りました。

 僕は小さいころから動くものに魅かれ、乗り物、特に車や電車、なかでも少し大きくなってからは飛行機がものすごく好きでした。4歳頃には、よく一人で電車を見に1キロほど離れた中央本線と総武線の踏切に歩いて行き、電車を見ていたそうです。そうやっていつの間にか居なくなり、家族を慌てさせていたみたいです。また、今の中野サンモール、昔の北口商店街を入ったすぐ左におもちゃ屋さんがあったのですが、そこを通ると決まって座り込んで動かなくなり、母を困らせたとか。家計が苦しかった当時、母はそうやって幼いタコがごねる度になんとかなだめて店先から離して連れ帰っていたと聞きました。でも、その飛行機・B29の時は梃子でも動かなかった。母は、仕方なく持ち合わせのお金を吐き出して買ってくれたようです。
 その飛行機と同じものを、しかも完全な保存状態のものをこの骨董市で見つけたのです!小さかった頃の僕には、そのブリキの飛行機はものすごく大きく感じたのですが、今見ると、意外と小さいです。心の片隅で、セピア色になっていた思い出が、フルカラーで目の前に浮かび上がりました。

 母を困らせてまで買ってもらった飛行機なのに、僕はあまり遊ばずに壊してしまいました。どういう仕掛けで車輪を動かすとプロペラが回るのか、それを知りたくて分解してしまったのです。家にあったマイナスドライバーを持ち出し、ブリキの小さな留め金をせっせと外して中を調べる。構造がわかって納得すると、満足。解体したままポンと放っておくのです。それを見て片づける母はどんなに悲しい思いをしたか、今は知る由もありません。

 骨董市で再会したB29、これは日本製ですし、思い出のものと全く同じです。こうしてまた持ってみると子供とはいえ、なぜ組み立て直して、もっともっと遊ばなかったのか・・自責の念がずしりときます。カンちゃんに安くしてもらい、購入しました。一時ブリキのおもちゃは一部の心無い業者によって値段が吊り上げられていましたが、今は元の値段に戻ったみたいです。買えてよかった~。そんなわがままな子供時代の思い出のブリキのおもちゃを思いがけず再度入手でき、何か熱いものが胸に去来しました。母が亡くなってもう5年、命日も真近です。感謝の気持ちを添えて、しばし霊前に置きました。
 
 
 
   

2012年10月4日木曜日

ハロウィーン


 あっという間に10月になりましたが、なかなか涼しくなりませんね。秋らしい気分にはほど遠いですが、街ではそろそろハロウィン関係の品が売られているのを目にするようになりました。僕には縁のないお祭りです。でも、その由来や歴史は興味深いです。キリスト教の行事ではなく、収穫を祝い、目に見えない偉大な力への感謝と畏怖から生まれた素朴な儀式が、時の勢力の推奨する宗教の普及の為に徐々にその意味や習俗が変えられていったようです。太陽の季節が過ぎ去る10月31日はケルト人にとって一年の終わり。11月1日からは、暗闇の季節とともに新年が始まりました。長く寒い夜には、精霊や悪霊の存在もきっと本当に思えたことでしょう。今では、そうした本来の意味は忘れられ、宗教的な関連付けもなくなり、アメリカの大衆文化の一つとして、日本でも受け入れられるようになりました。

 日本人は季節感を非常に大切にし、その意識が着物の柄から食べ物に至るまで、生活のあらゆるところに反映されています。僕もやはり旬の食べ物をいただくのは楽しみだし、玄関の置物も季節を意識して選びます。
 一方、アメリカは広いですから、一年中温かい地域もあります。それでも、ハロウィンになれば、かぼちゃの置物や紅葉の色合いのデコレーションを施し、イースターになれば、春を感じさせるパステルカラーのデコレーションで飾り立てるところが面白いです。ちゃんと彼らなりに季節の変化を演出し、楽しんでいる。遠い昔のヨーロッパの記憶がずっと息づいていて、万人が楽しめるお手軽で商業的なアメリカンスタイルに進化しているから、日本人の目にも楽しく映るのでしょう。

 上の写真は、タコの娘が作ってくれたクッキーです。彼女は、料理やお菓子作りが好きなので、ちょっと血圧が高めでコレステロールも心配な父親の為に、ヘルシーなレシピを考案したりしてよく手作りの菓子やらピロシキなどを差し入れてくれます。蝙蝠のクッキー型は、河童橋で見つけたそうです。僕も河童橋は好きで時々行っては、使いもしない調理器具をつい買ってしまいます。娘は、この型で早速ココア風味のクッキーを焼いて持ってきてくれました。砂糖控え目、ちょっとビターな蝙蝠です。赤い目と小さな蝶ネクタイが特に可愛いかったので、食べてしまう前に記念に写真を撮りました。

2012年9月19日水曜日

季節の味 松茸 

 昨日の夜、近くのスーパーを歩いていると、棚にワンパックだけ松茸が残っていました。今問題の中国産ですが、見たら食べたくなって買ってきました。小さいのが3本で930円。やはりちょっと高かったかなぁ。

 秋になると、小学生のころ八百屋さんに松茸が安くたくさん並んでいた懐かしい光景が思い浮かびます。もちろん国産の松茸です。母がその松茸が好きで、よく焼いて食べさせてくれました。子供の僕が好きだったのは醤油をつけて焼く松茸で、いまだに思い出があります。小学校の六年の運動会で、みんなでお昼のお弁当を食べようとしていたときです。僕は中学では「ノリ玉」というふりかけが大好きで、お弁当はいつも「ノリ玉」弁当なのでタコというあだ名以外に「ノリ玉」というあだ名がついたくらいでした。
 「ウワー、この弁当に乗っている茶色のものはなんだ???」とみんながのぞきにきました。「松茸だよ」とタコ。こんなもん、好きなのか?といわれたことを、ふと思い出しました。当時の子供は安くても松茸はあまり食べなかったのでしょうか?今ではこの3本入りの小さな松茸がワンパック930円もしますが、昔はまずしい家庭のタコにもたくさん食べられたくらいですから本当に安くてたくさん採れたのです。
 この醤油をつけた焼松茸、本当に香ばしくておいしいのです。実は3本入っていたのですが写真を撮る前に1本食べてしまったのです(^_^;)

タコの得意料理!?「松茸の醤油焼」
骨董の大先輩のHさんはもう25年くらいのお付き合いです。父親くらいに離れた年齢を感じさせないほど元気で、骨董市ではどこでも顔をあわせます。最初の出会いは確か花園神社の骨董市だったと記憶してますが、そのHさんが大の松茸ファンで、毎年長野に松茸食べに行かれるほどなのですが、昨年、いっしょに行かないかと言われました。お前さんの車で行こう、高速とガソリンはお前さん持ちで、あとはすべて出すから・・というのが条件でした。いやあいいんですかとすぐタコの返事。内心は大喜びでスケジュール調整しました。渋温泉と野沢温泉に2泊して松茸園で山ほどの松茸をご馳走になりました。さらにお土産に「松茸」を籠でいただきました。昔集めた骨董品が値上がりして、それを少しずつ処分して楽しむんだといってました。

  人生は楽しまないと、というのは平家の時代に後白河法皇が今様で「あそびをせんとやうまれけむ・・」とかうたっていました。今は亡くなった陶芸家の辻清明さんもそんなこといってました。
 確かに人生はできれば楽しく生きたいですね。一度きりの人生ですから・・。でも楽しいという感覚は、つらいこと、苦しいことがあるから楽しいのだし、苦しみを乗り越えた時こそ心から楽しめるのだと思います。この大先輩のHさんも働き通しの人生だったと聞きました。そういう人生であるからこそ潤いというか楽しみは欠かさないようにしないといけないなぁとつくずく思いました。茶道でも「一期一会」という言葉があります。この今というひと時を一生懸命に生きる、相手とせいいっぱい楽しむ、それが永遠ということの意味なんだ、ということなのでしょうか。今年もHさんから一緒に松茸食いに行こうと誘われてます。

 
 

2012年9月18日火曜日

岐阜・柳ケ瀬のロイヤル劇場で観た映画「お早う」

 
 今月も、岐阜の中日カルチャーでの講座がありました。かなり早く着いたので、柳ヶ瀬のロイヤル劇場でまたまた映画をみてしまいました。相変わらず昭和名作シネマ上映会が続いており、ちょうど小津安二郎監督特集をやっていました。1959年に公開された「お早う」という作品。佐田啓二、久我良子、杉村春子、笠智衆他、懐かしい俳優が出演している映画です。小津映画独特の綿密に構成された画面の中を、まさにごく普通の日々が流れて行きます。自分が当時の日常生活にタイムスリップしたような錯覚に陥ります。ドラマチックな展開は何もない、平凡な一般市民の「ある数日」を撮影した感じです。人の陰口をたたくおばさんの典型から、今では見られなくなった押し売りまで登場して、ああこんなこともあったなぁというショットも。最近では、海外も含めたインディーズ系で同様の作風も珍しくありませんが、昭和34年当時にこんな映画を撮影した監督は他にいません。僕が12歳の時の作品で、本当に懐かしい雰囲気でいっぱいです。

 アメリカ映画から洗練のエッセンスを吸収した小津監督の徹底した美意識・・・無駄なものが排除された映像と俳優たちの演技が、昭和の生活を鮮やかにスクリーンの上で繰り広げてくれます。小津監督は黒沢明監督に引けを取らぬ徹底した完全主義者であったらしく、俳優さんは大変だったようです

 「お早う」は小津監督にとって2本目のカラー作品です。彼のホールマークとも言える赤が、衣装や小道具に程よく使われ、それをグレーやキャメルで引き立たせています。小道具にも本物を使う主義だったそうです。
 まだ中高年の女性が着物を日常着にしていた時代を反映して、和装の登場人物が多い中、子供や若者は洋装で新旧の世代の対比を成しています。久我美子のほっそりとした体形にふわりとまとわれた仕立ての良いワンピースやAラインのコートがとても軽快で爽やかに見えます。華族の出身だけあり、品の良い顔立ちで、当時の清廉潔白な娘役がぴったりです。でも、大人っぽい役もこなせる女優さんでした。本作品出演当時はまだ20代後半だったと思います。年を経てもほとんど変わらぬストイックな雰囲気のまま、映画だけでなく、テレビにも出演していました。

 この作品の中で、久我美子と魅かれあいながらもなかなか恋慕を態度に表せない、不器用な昭和の若者を演じているのは佐田啓二です。この5年後に事故により37歳の若さで亡くなったのですが、現在俳優として活躍する子息・中井貴一より男前です。しかし、美男である前に個性が重視される昨今、中井貴一はマジョリティーがイメージする「普通の人」の風貌に生まれて来て良かったのかもしれません。現実にはあのように顔が小さくプロポーションの良い、精悍ともいえるほどの男性など、朝の通勤電車を見回してみてもいないでしょうが、中井貴一は日本人の観念にある「平均的な日本人像」にしっくり合うようです。

  建売の並ぶ、新興住宅地での他愛もない出来事が軽妙に繰り広げられるのですが、その中で、二人の兄弟が、両親にテレビを買って欲しくて、あの手この手でアピールします。タックの入った長ズボンに手編みのような厚手のセーターを着ています。この少年たちの服装もまさに僕の少年時代そのままで、当時の自分を見ているようでした。1950年代後半は、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が三種の神器として宣伝されていました。頑張って働いてお金を貯めれば、何とか手の届く家電でしたが、街頭の電気店の前などに人が集まってプロレス中継を見ていた様子は、今でも時々テレビで懐かしの昭和映像として流されます。我が家でも、電化製品好きの父がテレビを購入すると、隣人や近所に住む親せき達が毎晩のように見に来ていました。タコは一人っ子で両親と三人暮らし。所謂「核家族」のハシリでしたが、学校から帰宅すると、母の友達やら顔なじみまで、狭い居間でくつろいでテレビを見ていたりするのが普通の光景でした。そこに僕の同級生も加わり、皆で一緒に相撲やララミー牧場やプロレス、野球観戦をしていたのですから、おおらかな時代です。
 
 60年代になると、カラーテレビや車、クーラーが次の身近な憧れの対象となりました。本格的な高度成長期に入り、やがて社会に出たタコも猛烈社員として仕事に明け暮れたのでした。電気製品もいちいち三種の神器などと冠している間もないほど、次々と新商品が発表され、今ではタコも新しい電気製品が出ると、つい買ってしまうほどです。
 「お早う」の愉快な日常の中には、笠智衆ら「お父さん」達が定年について話し合うシーンもあります。当時、サラリーマンは定年まで同じ会社に勤めるのが普通でしたから、慣れた生活や肩書を失うことには一抹の寂しさを感じたことでしょう。引退後は年金で暮らし、孫にお年玉をやったり、盆栽いじりをしたり...まだまだ、そんな「老後」が当たり前だった時代。今は転職も日常茶飯事ですし、リストラやら、早期退職やらで終身雇用など期待できません。定年までいられたとしても、その後も働くのが当前となっています。早々に引退などと悠長なことは言っていられない時代ですが、その分だけ、中高年が若くなっています。もちろん、服装や髪形の若作り、健康ブームによる体形維持もあるのでしょうが、昭和30年代の60代と比べると、現代の60代は遥かに若いです。まだまだ元気に、日本を支えていきましょう!

2012年9月12日水曜日

大江戸骨董市 in 代々木公園

大江戸骨董市 in 代々木公園の初日風景
今月から代々木公園のケヤキ並木でも大江戸骨董市が開催されることになりました。原則的には、毎月第2と第4・水曜日に開かれるので、今日がその第1回目です。 
 僕は午後から国立のNHKオープンカレッジでの講座の仕事がありましたが、朝早起きして、早速この代々木の骨董市に行ってみました。

国津さんの記念すべき初出店!
日本骨董学院のホームページに骨董市情報を提供してくださっている 国津さんも、今回から出店なさるとのことでしたので、訪ねてみました。今日はお天気に恵まれたとは言え、かなり日差しが強く蒸し暑かったですが、国津さんは運よく木陰に店開きすることができました。
 長年に渡り、のぞき猪口を重点的に集めてきた国津さんですが、その大切なコレクションが並ぶ、しゃれた古伊万里の品揃えです。売っているご本人がまだ手放すのが惜しい、と思う品々だけあって、すぐにお客さんが足を止めて見ていました。順調な露天商デビューです。これからも、毎回違う品が並ぶそうですので、古伊万里好きの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

 骨董市では、他にも日本骨董学院 で受講なさっていた方に出会うことがよくあります。僕は、骨董市でそうした方々とお会いして近況を聞くのも楽しみです。

こちらもプロの貫録、荒巻さんのお店は何があるか楽しみ!
この代々木公園でも荒巻さんのお店がありました。立派なテントの下にバラエティーに富んだ魅力的な品がたくさん並べられていました。立体ディスプレーの上手さにも感心します。知り合いでなくても「何か面白うそうだな」と、奥までつい覗いてみたくなるお店です。安心して入れる楽しい骨董屋さんの雰囲気がいいです。かわいい中国「古玩」もたくさんあつかっています。

東京オリンピックの水泳会場であった代々木第一体育館を背景に
大江戸骨董市in代々木公園は、水曜日の開催にも関わらず、出店数も来場者数もなかなかのもので、盛況と言えました。日本骨董学院 で学んでくださった方々が、実際にこうしてプロとして活躍なさっているのを見ると、本当に嬉しいです。皆さん、それぞれの好みや個性を反映した楽しいお店作りをなさっています。ここでご登場いただいた方々以外にも、あちこちの骨董市に出店なさっている方がたくさんいらっしゃるので、これからもご紹介してゆきます。

2012年9月11日火曜日

最高の担担麺

麹町「登龍」の担担麺

 僕の食べ物における趣味では、値段が高いからうまいだろうという注文の仕方はありません。安くて美味い店を探すということも正直、無理だと思っています。なぜなら、美味しい味を出す新鮮な食材は安くは手に入りにくい物だからです。それに腕のいい料理人は高額な給料をとるからです。まあ高くもなく、安くもないというところにずば抜けておいしい店を発見するのが僕の楽しみなのです。

 今回は四谷に近い麹町4丁目交差点ほぼ角にある中華四川料理「登龍」の担担麺をご紹介します。僕と「登龍」の出会いは社会人になりたての昭和48年にさかのぼります。そこにはもともと「ロメオ」という喫茶店があり、よく利用していましたが、あるとき急に「登龍」にかわったのです。実はその隣に最初に勤めた会社がありました。その会社の社長にご馳走してもらったのが登龍の「担担麺」との出会いの最初です。最初はやや辛い中華ソバだなと思っていたら、次第にそのコクのある味が忘れられなくなって、隣ということもあって足しげく通いました。今でも盛んに通っていますから、もうかれこれ足かけ40年通っていることになります。以前このブログで中野の「さらしな蕎麦」店について書きましたが、それに次いで僕にとって大切な思いで深い古い店なのです。しかも驚くべきことに、その時から味は少しも変わっていませんから、もう驚異といえます。

 栄枯盛衰は世の常ですが、美味しいと思っていた店の味が急に落ちたり、サービスが悪くなったり、利益中心主義に落ちたりということが最近は頻繁で、うかうかブログにも推薦文を書けません。でも、この登龍はいつ行っても、本当に味の変わらない店で、安心して皆様にご紹介できるお店です。隅々まで掃除の行き届いた店内、ランチタイムでもシミ一つない糊のきいたクロスがかけられたテーブル、その上の一輪挿しには、フレッシュな薔薇。きれいに髪をとかしつけた黒服のスタッフは、素晴らしい間合いで俊敏にテーブルを廻る間も笑みを絶やしません。これぞプロです。いわゆる要人も来店するようですが、どの客にも温かく行き届いたサービスを提供する姿勢は、変わらぬ美味しさとともに一流の証です。

 登龍では、他のメニューも抜群の味ですが、やや高額です。しかし美味しいものはどうしてもちょっと高いのです。担担麺はランチ時だと通常の1800円が1000円で食べられるので、大人気です。すごい混雑ですが11時15分開店なので、12時前ならすいていてまったく問題ありません。

 僕は担担麺の美味しさをここで初めて体験しましたから、ほかに美味しい担担麺がないかといろいろ探しては味見してますが、登龍にかなう味の担担麺には今のところ出会いません。

 この美しいこってりスープをレンゲですくうと、それだけで素晴らしいゴマの香りが口に広がります。口に入れる前からも食欲が倍増するほど美味しそうな香りです。スープがほどよい太さのちじれ麺によくからみ、うま辛みとゴマの風味とひき肉のだし、ほうれん草が絶妙なバランスで完璧な味を作り出しています。これだけ濃厚なのに、くどさは全くなく、最後まで飽きずに一気にいただけます。

 我こそは担担麺ファンと自称している方はぜひ一度食べてみてください。これに勝る担担麺があったらぜひ教えてください。試食に行ってみたいと思います。でもないと思いますが・・・



登龍 麹町店: 地下鉄有楽町線「麹町」駅から徒歩1分
http://www.tohryu.co.jp/

 
 
 
 
 

2012年9月10日月曜日

大谷田温泉「明神の湯」

 
大谷田温泉「明神の湯」の案内
僕は温泉が大好きなのですが、このところまとまった休みが無く、遠出できずにいました。今日は一仕事終えてホッとしたので、以前から気になっていた都内の温泉に行ってみました。足立区にある、大谷田温泉「明神の湯」です。広い駐車場があるので、車で行きましたが、電車だと常磐線の亀有駅からバスに乗って10分とのことです。


 昭和の銭湯みたいな入り口がイイ感じで迎えてくれます。これはいけそうだな、と期待に胸を膨らませて暖簾をくぐりました。


 まず、券売機で、入浴券を買いました。シルバー料金もあり、日によって女湯デーとか夫婦デーといった特定の割引が設定されているようです。マッサージもあるし、作務衣も貸してもらえるし、お食事もできます。すべて券売機で券を購入するシステムみたいです。
 お風呂は、露天風呂もあり、なかなか広いです。水質は、天然ナトリウム塩化物強塩温泉(弱アルカリ性高張性温泉)だそうです。塩分と鉄分が豊富に含有されており、皮膚に良く、からだも温まります。熱めのお風呂、ぬるめのお風呂、更に湯温の低いひと肌くらいのお風呂、露天の岩風呂、檜風呂、サウナ、蒸し風呂などとバラエティーに富んでいて、とても楽しい温泉です。露天風呂の周りには、様々な木が植えられており、中には白い花をつけたものや、可愛い実のなっているものもあります。ここに来るまでは、まだ残暑を感じてぐったりしていたのですが、露天風呂に使っていると、不思議と涼しい風が吹いて、本当に気持ちよかったです。
 時々湯船から出て、外のベンチでほてりを取ります。タコは熱めの湯が好きなので、とっぷり使って熱くなると、水風呂も入ります。井戸水なのでしょうか、キリッと冷えた水に身が引き締まります。
 気に入ったのは熱めの桧皮の湯で、薄いコーラ色した湯です。以前新宿にあった「十二荘温泉」のときと同じ種類の泉質のようです。東京は関東ローム層があるので、こうしたコーラ色がかった温泉が多いみたいです。一時間ほど気ままに温泉を楽しんで、汗を流しました。
 

 休憩所にあがり、レモン・シロップのかかったかき氷で、すっかり乾いたのどを潤しました。かなり大盛りだったので、4分の1も食べたら、寒くなってきました。熱いお茶を飲んで、しばらく横になり、予約しておいたマッサージの時間までゴロゴロ。周りには、昼寝をする人、マッサージチェアでくつろぐ人、テレビをみたり、読書をする人など、皆さん、好きなようにまったりとくつろいでいます。
 マッサージは、体と、足を手もみしてもらうBセット1時間コースをお願いしました。ちょっと強めでイタ気持ちイイ(ーー゛)。なかなか丁寧で上手でした。
 もう一度浴場に行くと、日はすっかり暮れていました。ほどよくライトアップされた木々の花や実を見上げながら、露天風呂に浸かっていると、まさに本格的温泉。都内に居るとは思えないほどくつろいだ気分にないりました。どこか田舎のひなびた温泉にいるみたいなのに、上空には近くに飛行機の明かりが見えたりして、不思議な情景です。リフレッシュできました。

 最後に、小腹が空いたので、沖縄のソーキそばを使ったナポリタンを食べました。これはちょっと甘くてタコ好みの味ではありませんでした。迷ったのは冷麺でしたから、そちらの方がよかったかなと反省。でも、まだまだたくさんメニューはあるので、いつかまたチャレンジしてみたいと思いました。本当にゆったりできて、気持ちの良い温泉施設です。都内の温泉は他にも入ったことがありますが、ここは設備が大変気持ち良くて気に入りました。これからも、時間を見つけてまた東京の温泉をあちこち試してみたいです。
今回は五つ星が最高ランクとしたら、タコの判定では四つ星半というところです。

大谷温泉「明神の湯」 http://www.myoujin-no-yu.com/



 

勝虫 石州流茶道・東京茶和会 

石州流茶道・東京茶和会での角田先生、わたしと皆様
 今年も、石州流茶道・東京茶和会の講演会が開催され、今回は「中国青磁・高麗青磁そして鍋島青磁へ」という青磁のテーマで講師としてお話をさせていただきました。皆様、茶道の専門家だけあって、歴史やお道具についての学識が深いので、僕の話に合いの手も入り、大変楽しく盛り上がりました。古代越州窯の作品から高麗青磁の成立の経緯、魚文の歴史と意味、桃山茶道のお話を入れながら、江戸の鍋島青磁に至る青磁の歴史についてお話させていただきました。
 途中、師範の角田先生が差し入れてくださったおこし「古代」と飲み物で、ティーブレークが入りました。老舗「大心堂」http://www.kodai.jp/のこのおこしは、品の良い甘さと適度な歯ごたえで、とてもおいしいです。僕もかねてより好きなお菓子の一つです。


備前のお皿と「大心堂」のおこし「古代」

 角田先生は、とても粋な紳士で、今日は勝虫(かちむし)のブローチをしていらっしゃいました。秋を感じさせる、さりげない季節のお洒落がさすがです。トンボが勝虫と呼ばれるには諸説あります。前進あるのみで、後ろに下がらない、すなはち戦に勝つということ等、いずれもこの虫が俊敏で勝負に強く、また幼虫の時は甲冑のようであり、その固い殻から出て成虫になると勇ましい姿に変わることから再生復活の意味でも縁起の良い虫ということになりました。古くは雄略天皇から、そして戦国時代にはますます武将たちに好まれました。兜の前立てや武具、武士の衣服の文様に広く用いられました。武家の茶道である石州流の師範でおられる角田先生ももちろんそうした意味もあって、大切な場にはいつも勝虫のブローチのコレクションの中から一つ選んで身に着けていかれるそうです。さりげないく日本の文化を身に着ける先生に心から敬意を表する次第です。



2012年9月8日土曜日

バッハ 無伴奏バイオリンソナタとパルティータ


 昨晩は講座が終わったあと、新宿の「ディスク・ユニオン」に行き、CDを見ていたら、めずらしいのがありました。4種類のバッハ無伴奏バイオリンソナタとパルティータを買いました。

 一枚は今回の中では一番古く、1973年から1974年に録音された、Susanne Lautenbacherのバッハの無伴奏バイオリン。それから1979年に来日して荒川区民会館で録音したJean-Jacques-Kantorowのレアな一枚。さらにラ・プティットバンドで活躍しているSigiswald Kuijkenのもの、これは古楽器としてのバイオリンを使っていると思われます。そしてサンフランシスコ生まれのRuggiero Ricciの無伴奏バイオリン。これからその違いを聴くのが楽しみです。

 僕はバッハの作品、とくに無伴奏チェロと無伴奏バイオリンが大好きです。その孤高の旋律と音色とはぼくを魅了してやみません。バイオリンとチェンバロのためのソナタも大好きです。これらバッハを聴いていると、宇宙的広がりと、すべてを許容する宗教的深みを感じます。魂を清められる思いです。音楽はギリシャの昔から医療に役だってきましたが、美しく深みのある音楽は、病に苦しむ人たちに、精神的安らぎと魂の浄化をもたらしたに違いありません。

 アンドレイ・タルコフスキー監督の名作「惑星ソラリス」のメインテーマに使われたバッハ、コラールプレリュードBWV639もすばらしい曲で、僕は死ぬ時に音楽を持って行けるのなら、このBWV639とバイオリンとチェンバロのためのソナタと無伴奏バイオリンとチェロを持ってゆきたいと思うくらいです。それにもし加えることができるなら、ミケランジェリのピアノでジュリーニ指揮のベートーヴェンのピアノ協奏曲5番「皇帝」とサムソン・フラソワのピアノでショパンのノクターン。そして最後にマーラーの「大地の歌」これはワルターとフェリアーの盤です。これだけあれば音楽に関しては死後も永遠に満足なタコです。

2012年9月7日金曜日

岐阜・ロイヤル劇場で見た「サンダカン八番娼館」 

ロイヤル劇場のチラシ
今年の4月から、岐阜の中日文化センターでも古美術・骨董講座で講師を務めているので、講座の後で時間があると、近辺を散策することもあります。以前にこのブログで旬の鮎をいただいた時の事を書きましたが、8月の夏休み前に柳ヶ瀬を歩いてみました。1966年、美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒットして全国的に名の知られるようになった歓楽街です。
 今はかつてのにぎわった面影のない「ロイヤル劇場」の昭和レトロな雰囲気にひかれ、入ってみました。上映作品「サンダカン八番娼館 望郷」は以前に観たことがありましたが、こんな昭和の名残みたいな映画館で観るのもいいなと思い、切符を買いました。
 1974年の東宝映画です。明治時代、天草からボルネオのサンダカンにある娼館に渡った日本女性に取材したノンフィクション作家・山崎朋子の原作をベースに描かれた作品です。


 家族を養う為に「からゆきさん」として異国に売られ、やっと年期があけて帰国すると、恥部として扱われ、人里離れた掘立小屋で孤独に貧しい晩年をおくる老婆サキ。この主人公を演じたのは、当時64歳の田中絹代です。確か、当時は久々の登場で大変話題になり、彼女にとって最後の出演作だったと思います。しばしば「いぶし銀のような女優」と評された田中絹代の演技にぐいぐい引き込まれました。閉ざされたサキの心を開き、彼女の「ふれられたくない過去」を聞き出そうとする役回りの栗原小巻は、当時、日本の国民的女優でした。(特にファンではありません(._.)念の為・・・)舞台女優としての癖の抜けない栗原小巻のセリフ回しと対照的に、元からゆきさんを演じる田中絹代は、どこまでもナチュラルに、するすると観客の心に入ってきます。時には頑なな老人になり、時には子供のように無邪気になり、観る者の心を揺さぶります。そのすばらしい演技に感嘆しました。ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞したのもうなずけます。
 若き日のサキを演じた高橋洋子も良かったです。彼女の聡明で清潔感のある美しさが、貧しさゆえに異国の娼館で働かなければならない素朴な娘の残酷な境遇を際立たせます。身も心もボロボロになっても、家族の為に生き、働き、そして故郷に帰る。その本能的な逞しさがたまらなく悲しいです。
 サキが帰国する頃、日本も豊かになり、彼女の家族も幸せに暮らしています。仕送りで生活を支えてくれたサキに恩返しをするどころか、彼女と一緒に暮らすことを恥とします。彼女のような人々の犠牲の上に豊かになったのは、その家族だけではなく、国自体でもあることを、忘れてはならない、とこの映画は伝えてくれます。
 バブルも遥か昔、不景気ばかりが話題になる昨今ですが、からゆきさん達が生きていたら、どう映っているのかな。数えるほどの入場者の、ひっそりと静かな柳ヶ瀬のひなびた映画館でしんみりしたタコでした。こういう映画館が今もあるんだぁ~。

2012年9月5日水曜日

白くま

 もう暦の上では秋とは言え、まだまだヒンヤリしたものが欲しくなる日々・・・。僕はアイスクリームやゼリーが大好きで、かき氷はそれほど食べませんが、最近はセブンイレブンで「白くま」を時々買ってみます。上にフルーツが乗っていて、たっぷりかかった練乳と混ぜていただくと、だんだん唇が冷たくなってきます。
 左は、本場九州の白くまです。鹿児島の名物で、フルーツだけでなく、甘く煮たお豆やギュウヒも乗っているのがおもしろいです。1930年代頃から広まったようで、最初は何気なく豆などを上に散らばしていたのをだんだんかわいらしく盛り付けるようになり、フルーツも増えたとか。名前の由来も諸説ありますが、格別においしいです。空気をはさんだ薄い氷の層がふんわりと盛られ、とろりと滲みた練乳と共に口に含むと、フワフワのまま溶けていきます。東京でもデパートの物産展などにお店が出るし、お取り寄せもできるみたいです。とても可愛いですが、普段は、コンビニの白くまでも満足です。
 それにしても、早く涼しくならないかな~(+o+)ぼくはすごく夏が苦手なんです。暑いとなおさらこうした冷たいものに手が出てしまいます。

2012年9月4日火曜日

槿(ムクゲ)



 季節的には秋になりましたが、まだまだ暑い日が続いてます。この間まで、去年買ってベランダで冬を越した小さな鉢植えの槿(ムクゲ)が、毎日一輪づつ花を咲かせてくれていました。マンションの入り口の槿は、まだ元気にたくさんの花をつけているのですが、タコの槿はもうお休みに入ったようです。
 机の上に朝鮮・李朝の白磁の盃に花を入れてみました。ともに韓国の焼き物と国花ですから、やはり合いますね。白の花弁にほんのり赤みがきれいです。李朝時代は儒教が全盛で、白を尊びました。何物にも染まらない純粋な白を象徴としていました。


 槿の前は、クチナシがなんとも言えない香りで部屋を満たしてくれました。本当にいい香りです。ぼくは沈丁花が一番好きですが、このクチナシも好きです。小さな李朝白磁の小壺によく似合い、これもまた大好きな、素朴そのものの栗の李朝くりぬき盆に乗せておくのがお気に入りです。李朝くりぬき盆は昔から韓国に行った時は2から3枚は買ってきていました。お蔭で今はかなりの枚数を持っていますが、最近は売られているのを見かけなくなりました。ぼくは中でもこの一番大きなくりぬき盆が好きです。大きさは55センチほどあり、盆としてはかなり大きなものです。

 
 毎年、梅雨の鬱陶しさを吹き飛ばしてくれるが紫陽花です。その美しさは格別で、鎌倉ではアジサイ寺の明月院が有名ですが、混みすぎて僕は東慶寺に足が向いてしまいます。東慶寺は北鎌倉駅からも近く、有名で観光客もさぞ多いと思いきや、これが意外とすいていていいのです。寺の中はいつもきれいに掃除されて気持ちいいし、有名人のお墓も多く、そのお参りも楽しみなところです。ここの紫陽花の植え込みには派手さはありませんが、寺の瀟洒なたたずまいと合っており、穏やかでゆったりできて私のは好きなところの一つです。荒らされてない苔の美しさは筆舌に尽くせません。今年は、秋田の白岩焼の壺にちょうど収まるサイズの鉢植えがあったので入れました。とても似合って爽やかな気分です。

2012年8月13日月曜日

ロンドン・オリンピックと北島康介の挑戦

 ロンドンでオリンピックが開催されました。いろいろな劇的な場面があり、スポーツってすばらしいなと思わせる場面や、みなさんもお気付きだと思いますが、外国選手の容赦ない反則とそれに気づかないのか、知らん振りしているのかわかりませんが審判の歯がゆい判定、違反の数々を見ているのが辛くなる場面もかなりありました。そうした意味で、今回のオリンピックはかつてのオリンピックでは見なかったさまざまな問題点を突きつけていると思います。
 タコは毎日オリンピックを楽しもうと思っていましたが、それが難しいことを身をもって知らされました。思わぬ「疲労感」がともなうことを知りました。特に最初に放映された柔道。日本のお家芸とされた柔道を見ていて、すごく疲れました。
 柔道の父である講道館を創設した嘉納治五郎は「精力善用」「自他共栄」を柔道の精神として唱えました。これはタコがまだ出版社に勤めていた頃に取材した、東大進学で有名な神戸の灘中学・高校の校是で、嘉納治五郎は灘中学・高校の創設者でもありました。当時の校長の勝山正躬先生からそのことを教えていただきました。純粋な精力を善いことに使い、自他共に栄える社会を築いてゆこうという高邁な思想です。この精力を養うのが柔道なのです。この姿勢は、自分だけが勝てば良いという考えとはほど遠いものです。まして相手を傷つたり、審判を買収してまで勝とういうようなことは、もともと当然のことながら柔道の精神にはないことです。

 テレビを見ていた柔道でドイツに負けたアメリカの選手は両目から血を出して、包帯で頭をくるぐる巻きにしていました。何をされるかわからない試合。見るからに凄惨過ぎる戦いのありさまです。彼が判定で負けて戻る時に通路に泣いて崩れ落ちた姿をみたら、人生を有意義に生きるためのスポーツが人生の目的のための、人生を賭けた博打みたいな存在になっていると思えてきました。きっとそのアメリカ人選手には今後の豊かな人生と夢がもろくも崩れ去った瞬間なのでしょう。失意の内に更に通路に崩れ落ち、そこに伏すアメリカ選手の横を誇らしげに胸を張って通りすぎる勝ったドイツ選手。目を覆うべき姿でした。そこには戦った相手への思いやりや敬意は微塵も感じられませんでした。勝ったということだけの傲慢な姿勢のみが感じられました。自分だけ勝てば相手などは踏み台同然と思っているのでしょう。

 また信じられないことですが、それは選手だけでなく審判にも該当することだったのです。今回のオリンピックではまじめな日本人選手は、審判のずさんな汚れた判定とその背景をなしているアメリカやヨーロッパの商業主義の犠牲になっているように思えました。柔道で見られた抗議、簡単に、それも審判全員の判定が正反対にくつがえってしまうジャッジ、あれは一体何なんなのでしょうか?実際に勝っていても、負けたと判定されるオリンピックとは何なんだろうかと思いました。彼ら審判には、長い選手の苦しく厳しい練習の日々への敬意など全くないのでしょうか?

 前回北京のオリンピックの柔道でも、優勝候補の日本人女子選手は手を強くねじられて骨折の激痛に耐えかねて敗戦したといわれていますが、審判は観て見ぬふりをしたといいます。冬期オリンピックのフィギュアースケートの審査でも浅田真央が審判の判定に苦しみました。フィギュアにおいて、回転が「華」であることは誰もが認めることであるし、選手も高得点を目指して頑張るわけです。そのルールを改訂するとはどういうことなのか理解に苦しみます。ソフトボールも日本が勝つと、オリンピック種目廃止になりました。国が金銭を出さない日本は負けて、国家の威信をかけたり、日本には負けたくない国は金を惜しまないということがよくいわれます。まさにあの柔道の審判にはそうした不信感を感じさせました。審判には恥じもプライドも真剣さも感じられませんでした。見ていた日本の観戦者たちは怒りさえ感じたことでしょう。前回北京オリンピックで男子砲丸投げ2位の室伏選手は一位がドーピング検査で失格のために繰り上げ金メダルになりましたが、ドーピング検査ならすぐ結果はわかるのに、大会終了後に、それも日本に帰ってから通知がきたといいます。表彰台に上がる栄誉が最大のオリンピックの醍醐味なのに、その恩恵にはあずかれなかったのです。そこにも意図的な日本人排除のニオイがするように思います。選手のドーピングや新しい、今の検査にひっかからない漢方系筋肉増強剤への対応も今後のオリンピックの行方に暗い影をもたらしているといえます。

 タコは体操団体戦を見てて、オリンピックが嫌になりました。男子体操団体戦でのこと、内村航平選手がこれから鞍馬をするため、気を引き締めて開始合図を待ってるのに開催国のイギリスの観客は自分たちの国のチームが快進撃しているため、ウィリアム王子やらが応援に来ていてうるさくさわぐので、内村はやりにくそうにしていた。あとで、あれで集中力を欠いたといっていました。他国の選手の演技中でも平気でさわぐ開催国のイギリス人は演技選手への思いやりや自分を厳しく見つめる騎士道精神も地に堕ちたなと思いました。その後、内村選手のその鞍馬で失敗があり、その失敗をめぐっての判定ミスまで出て、もうめちゃくちゃでした。最初体操男子団体4位の結果表示を見た日本選手は呆然自失の状態でした。日本の監督が内村選手の鞍馬で倒立の得点が抜けていると厳重に抗議したら、審判団はビデオを見たり、検討したりして、渋々といった感じで長い時間をかけて修正しました。その結果4位から銀メダルに変更となったのです。後味の悪さだけが残りました。

 その後味の悪さを払拭してくれたのが北島康介です。3連続金メダルを狙った100メートルでも破れ、同じく200メートル平泳ぎに賭けていたと思います。そこでも後輩の立石にタッチの差で負けて4位でした。その立石に「よくがんばった。おめでとう」と声をかけた。すがすがしかった。北島選手はすばらしいと思った。金メダルをとるとすぐ逃げるというか、引退する選手が多い中、チャレンジ精神の北島選手の12年はすごいです。これは以前のブログに書いた時と変わりません。そちらも読んでください。そのご褒美の400Mメドレーリレーの2位銀メダルでした。北島選手ご苦労さま!というより、自分への挑戦、お疲れさまといいたい。自分への挑戦はこれに止まらず、終生続きますから、これからは肉体への挑戦ではなく、円熟した人生に向けて頑張って・・・といいたい。同僚の立石選手をはじめとした仲間の選手も北島選手に敬意と尊敬をはらっていて素晴らしいと思います。

 サッカーの日本対モロッコの試合を見ていて、モロッコの目に余る突き倒す妨害にも審判は注意の宣告もしませんでした。一番ひどいのはボクシング。日本の選手がスリップ気味で倒れたらカウントを数え、日本人が相手を連打して倒すとスリップダウンみたいにカウントしない。それが6回も同じことが続く。あげくの果ての判定負け。信じられない光景です。あれでは審判が買収されているといわれても仕方ないでしょう。オリンピック・ボクシング協会では抗議を受けてボクシングの常識ではあり得ない再判定とその審判員の追放を行ったが、オリンピックの威信もなにもこれでは台無しです。その清水選手はのちに銅メダルをとりました。

 バトミントンの無気力試合も見ましたが、これはあからさまでひどすぎます。中国、韓国、インドネシアなどの選手を出場停止としたといいますが、当然です。該当各国は世界の手前、選手を追放処分にしたが、これも監督の指示以外の何物でもないでしょう。引退の選手も出たそうですが、問題です。すべて勝敗が人生を変える金につながっているからなのです。不況も影響しているでしょう。世界の失業率は日本の比ではありません。選手も必死なのはわかります。だからといって不正をしてよいということにはなりません。女子サッカーの佐々木監督がふともらした、移動距離の問題から引き分けに持ち込むので、ゴールしないようにという指示も真摯な姿勢とはいえませんね。神が日本の女子サッカーを見放さなければいいんだけどなぁと思いましたが、銀メダルとれて、よく言われる「運」だけでなく本当に実力があることが証明されました。

 今回の日本勢のメダル数は過去最大の38個で、金7、銀14、銅17でした。私はチーム力では女子卓球、女子バレーボール、女子サッカー、男子水泳400Mメドレーリレーがすばらしかったと思います。すべてを見た訳ではありませんが、なべて日本の選手はフェアーで、見ていて清々しく、すばらしいと思います。
 男子体操の内村選手は責任感がひときわ強く、自分に負担をかけすぎたのではと思いますが、それだけに人間的にはとてもすばらしい青年です。それに比べて韓国サッカーの竹島問題の選手は最低ですね。韓国の大企業であるサムスンはオリンピックIOCに何十億の多額の献金をしていますから、この問題はメダル剥奪とはならず、うやむやかメダル授与になると思います。あってはならないオリンピックがそうした商業主義になるので、日本のような真面目な国に報われない選手が出るのです。しかしやましいことをして取るメダルより、崇高な精神を重視する選手であってほしいと思います。自分の汚れなき精神が、今後の人生には最も重要だからです。

 古来、オリンピックはギリシャでオリンポスの神々に捧げられた競技で、戦争をしている間の国々でも、戦いを中止して競技に参加した祭典といわれます。ギリシャの神々は、きわめて人間くさく、とても神とは思えないくらいですが、私はギリシャの神々は人間が神に進化してゆく過程のすがたのように思えます。そうした観点からみると、オリンピックは神々の候補生の誕生の場と考えることもできます。美術史的にみれば、ギリシャ彫刻の理想を求める姿勢は完璧と言って良いほどです。ミロのヴィーナスも完全なプロポーションです。有名な「ダビデ」にしても、「円盤を投げる男」にしても完全な肉体美を追求しています。ギリシャ人にとって、最高の姿はやはり今で言うメダリストの優れた肉体美なのでしょう。月桂冠を載せられた勝者は神に比せられた、といってもいいのです。最高に美しい肉体美、それが勝者の肉体美なのです。古代オリンピアの競技種目はすべて実際の戦いそのものであったのです。特に訓練された兵士の代表者が「選手」だったのです。最高の肉体は一流の兵士であり、それが選手であり「美」の基準ともなり、最後は伝説的な英雄、神々に列せられたのではないかと考えられます。100メートル、200メートル、400リレーで世界新記録を達成したウサイン・ボルトがこだわる「伝説的存在」になれたということは2連覇できて「神」そのものにさらに近づけたという意味であると思います。
  

2012年7月26日木曜日

パイプの楽しみⅣ GERT HOLBEK・MEERSCHAUMなど

ホルベックのジュビリータイプのボウル上部分

美しいホルベック・ジュビリーのストレートグレイン

 これまで3回パイプについて書いてきました。特にGERT・HOLBEKのパイプの素晴らしさについて、昔に戻って書いてみました。世界から思わぬ多くの愛好者のアクセスをいただき、パイプの人気の高さに驚きました。そこで40年前に戻って、再度パイプへの情熱をみなさんと共有したいと思い書き続けています。

 そこで今回はステムが折れていたため修理に出していたANTIQUE・MEERSCHAUM(メシャム・海泡石)が仕上がってきましたので、このパイプについて書いてみたいと思います。
鷲がボウルをつかんだところをイメージした作行きです。ヤニの染みこみ方から推測すると、やはり100年ないしはそれ以上の時間が経過しているのではないかと思います。折れた原因は2年ほど前にこの作品を所有する骨董業者さんが興味を持つ人に見せたら、ステムを強く回したので、ステムがねじれて折れたということです。

 そこで折れる前から欲しがっていたいたタコのことを思い出して、特に安く譲ってくれたのです。そこで陶磁器の修復師としてタコが日ごろ敬愛する音楽好きのあの松田さんに頼んだのです。陶磁器の修復専門家ですので、パイプの修復は初めてで、しぶってましたがタコの熱意に負けて引き受けてくれました。条件は期間を設定しないことで、自由にやってもらいました。漆直しですから時間がかかる上に、付ける素材がはっきりわからないので試行錯誤で直すほかにやりようがないみたいです。でもこれ以上は期待できないというくらいに素晴らしく直りました。

 タコは現在、「パイプの楽しみⅠ」で紹介した1895年のホールマーク入りビリヤード型のMEERSCHAUMパイプと、Ⅱで掲載したハムレットに登場する「ヨリックの頭蓋骨を持つハムレットの手」のMEERSCHAUMパイプと、本日ご紹介する「鷲の手」のMEERSCHAUMパイプと「編み物をする娘」のMEERSCHAUMパイプの4点を持っています。すべてANTIQUEでヤニの染み込みが素晴らしく美しいものです。

 いつもメシャムのパイプ作品に感動するのは、過去の所有者がとても大切に使ってきたことです。とくにⅠのビリヤードのメシャムにそれを感じますし。型の入れ物に入ってますが保存が完璧で最高の状態です。おそらく手袋をして吸うか、セーム皮に包まれて吸われ続けたのだと思います。Ⅱの「ヨリックの頭蓋骨を持つハムレットの手」にも同じ思いをもちます。この作品はさらに細かい彫刻がなされ、完成度のきわめて高いものです。壊されずに残ったことが奇跡みたいなパイプです。先のこの「鷲の足」パイプのように、メシャムは壊れやすいやわらかい素材に細かい彫刻が施されているから、なおさら大切にあつかうことが重要なのです。

ビリヤード型メシャム・パイプとケース
ヨリックの頭蓋骨を持つハムレットの手・タールの染み込みが美しい。

細かい彫刻にタールの染み込みが素晴らしい「鷲の手」メシャム・パイプ

見事な金直し(マウスピースの下部)


2012年7月7日土曜日

長良川の絶品「鮎ランチ」

 今年の4月から中日新聞文化センターの岐阜教室で「楽しい骨董入門講座」を新たに担当しています。岐阜は室町守護職の土岐氏が治めていた歴史ある街です。岐阜城は町を見下ろす山城の代表のようなすばらしい城で、眺めは抜群。360度のパノラマで、濃尾平野はすべて見晴らすことができます。この城は戦国時代には、美濃を領有した土岐氏から斎藤道三の居城となり、さらに信長の手に落ちました。国盗り物語の舞台として有名です。その歴史の舞台に毎月1回行けるのは歴史好きのタコとしては非常に楽しみなのです。現在16名の生徒さんたちが通ってきてくれています。


岐阜・中日文化センターのクラスの皆様と
 岐阜は云わずと知れた「鮎」の名産地。、長良川の鵜飼いは全国的に有名で、おいしく食べさせてくれる店が何軒かあります。私は名古屋の同じく中日文化センター栄教室では7年前から講師をさせていただいてますので、昨年は足を伸ばして岐阜にやってきました。その折に見つけたお店が良かったので、また今年も寄らせてもらいました。「うお惣」というお店で、お父さんと息子さんがやっているお店です。(下記連絡先)


ランチ、とても素晴らしいです。写真でも十分わかりますよね~。6月7日でしたので、若鮎3尾の塩焼きをお願いしました。写真のように、見ただけでも美味しそうな焼き上がりです。タコはたまらず頭からガブリといただきました。香ばしくて、塩味が好きなタコにも程よくて、思わず「あ~、うまいな~!」と言葉にでてしまいました。3尾頭から尾まですべていただき、付いてきた「鮎雑炊」、これがまた鮎の香りがほんのり、さらとろりとして何とも旨いのです。きけば今の若鮎の時期までは昨年の親鮎を保存しておいて、その親鮎からとったダシが美味しいのでそれを使うそうです。そうするとコクのある雑炊ができるのだそうです。これもすばらしい。さらにフルーツをいただいて、十分に満足。ランチの鮎塩焼き定食2100円。次は、夏過ぎたら親鮎をいただきに行くのが楽しみです。

● 岐阜中日文化センター: http://www.chunichi-culture.com/gifu/
ご興味のある方は、上記ウェブサイトの講座分類の中から「歴史・教養・文学」をクリックし、「たのしい古美術・骨董入門」をご参照ください。

● うお惚(うおそう): http://uosou.net/
住所 〒500-8082 岐阜県岐阜市矢島町1-3
電話 058-262-1875
営業時間 昼(ランチ)  AM11:30~PM2:00 夜 PM5:00~PM9:00定休日 第2 / 第4 / 第5 水曜日
ランチも電話で予約が必要です。