2013年1月8日火曜日

佐藤 晃 & 富平 園子 二人展を観て 

 
 彫刻家の佐藤 晃さんから陶芸家で奥様の富平 園子さんと、展覧会開催(1月5日から19日まで)のお知らせをいただきました。会場のGALLERY KINGYO(東京都文京区千駄木2-49-10 電話050-7573-7890)は、私の好きな谷中に近い下町の奥まった一角にあります。さっそく訪れると、佐藤晃さんが笑顔で出迎えてくれました。(写真は佐藤さんと作品)  

  彫刻・石彫は好きです。僕はエジプトからギリシャ、ローマ、そして先日もバンベルグの騎士像やナウムブルク・ドームのウタとエッケハルト像を見にドイツまで行ったくらいですから、良いものでしたらどこまででも観に行きたいと思っています。ただ素材が重いので、コレクションの対象としては無理なところがあり、現在はガンダーラの小彫刻程度で我慢しています。  



 今回の佐藤さんの石彫刻はかなり大きな作品で、独特の趣、というか雰囲気を持っています。石の抽象作品としては珍しく、非常に親しみやすいです。観た瞬間に僕が作品から受けた印象は、古生代の生物、特にウミユリです。海にゆらゆらと触手を動かして餌をとるウミユリは実は植物ではなく動物なのです。地球上に最も早い時期、2億5000万年前の世界に発生した動物で、ヒトデなどによく似た生物です。僕はウミユリの化石を持っていて、観るたびにその美しさに引き込まれます。それと同種の雰囲気を佐藤さんの彫刻に観たのです。(写真)
 抽象芸術は観た者側の想像力や感性に評価がゆだねられるという特質があります。評価するというとおこがましいのですが、自分にピッタリの感覚であるか、どうかです。その良い見本が京都の「竜安寺石庭」です。あの石の並びをどう観るか、そこに何を想うか、観る側の感性で、感じ方もかわります。それが禅宗的世界観ともいえます。ですからどのように感じるか、それは観る側次第ということになります。  


 佐藤さんの作品には、その魅力的な人柄が表れています。石でありながらどこかに柔らかさを持っており、親しみやすさ、生命力を感じさせるのです。佐藤さんの作品は東京都立総合芸術高等学校の中庭に展示されるという栄誉を受け、芸術家を目指す若い高校生の皆さんが、毎日彼の作品を観て、そこから刺激と創造の力を得ているようです。


雨引きの里と彫刻

東京都立総合芸術高等学校
佐藤 晃さんの略歴:  
1964年生まれ 日本大学芸術学部美術学科彫刻コース卒業
 同 芸術研究所彫刻専攻修了後、多くの展覧会に出品。

  在学中から数多くの個展、美術館主催の展覧会、国立博物館柳瀬荘のアート・教育プロジェクトなどにも出品され、その活躍の場を広げています。特に僕は栃木県益子に近い「雨引きの里での彫刻展示」に着目しています。ここでは大自然の中に作品を展示するので、その真価が問われます。大自然に堂々と対峙できるか、溶け込むか・・・いずれにしても中途半端であったり、ふざけた作品は大自然を背景にして立ち続け得ないものと思います。歴史を経た古い民家を借景にしても佐藤さんの石の作品は不思議に合うし、学校の中庭にも合う。それは作品そのものに、進化し続ける生命の力があるからだと思います。

雨引きの里と彫刻

ポラリス ジ・アートステージ
  地球の遥かな時が創り出した石、その石を掘り出して、そこに自分の時を刻む。そしてまたそこから永遠の時がはじまる。石の彫刻って素晴らしいなァ~、大きな家があったら、佐藤さんのこの作品を毎日見ながら暮らせたらいいだろうなァとつくずく思いました。
 ぜひこれから注目していただきたい彫刻家です。

 奥様の富平園子さんも愛らしい陶芸作品をショーケース出品されています。日常的に使える女性らしい、やさしい感性の作品で、ぐい飲みから皿、鉢類までの手軽に使える作品です。 園子さんは子供が大好きで、井の頭公園近くの自宅で陶芸教室を開いています。小さな子供から大人までたくさん通っています。



 お母さんと2代にわたり個性を大切にする私立明星学園で学んだ園子さんは、その後、ご主人と同じ日本大学芸術学部美術学科彫刻コースに進学。そして現在はまさに多くの子供たちの個性を引き出す焼き物教室を実践されているのです。園子さんは自分が受け継いできた人間としての永遠性、すなはち個性という永遠性を、いま一人一人の子供に植えつけているのです。それはいつか子供たちの心に大きく花開き、また次の世代に引き継がれて行くことでしょう。
  芸術家一家であるお二人のこれからのますますのご活躍を期待しつつ、新年最初の展覧会を拝見いたしました。  

2013年1月3日木曜日

カフカ(Franz Kafka)の散歩道 Steglitz公園


カフカと同時代のプラハの城の遠景とカレル橋
フランツ カフカ(Franz Kafka)
20世紀を代表する世界的作家。チェコのプラハに生まれる。小さいころから繊細な性格のカフカは、生粋の商人で経済力のある父との葛藤に悩み、それが抑圧された時代とプラハという迷路のような古都を背景に、独特の文学を形成した。当時、死の病とされた結核に侵されたこともその文学に大きな影を落としている。代表作に「審判」「城」「変身」「アメリカ」「死刑宣告」「父への手紙」などがある。1884年~1924年


 2012年11月4日、ベルリン・ボーデ博物館通りの古本と骨董市で「カフカ評伝(Franz Kafka)」著者Klaus Wagenbach を見つけて買いました。(ボーデ博物館通りの古本と骨董市については、日本骨董学院ホームページhttp://www.kottou-gakuin.com/から愛知県共済のインターネット連載講座「西洋アンティーク紀行」ベルリンの骨董市めぐりをご覧ください)


1923年か死の年1924年のカフカ
僕が若き日に熱中して読んだカフカ。その晩、早速ホテルでその評伝を読むと、カフカは、死の8か月前に最後の恋人、ドーラ・ディアマント(Dora Diamant)と生涯で一番幸せだったひと時をベルリン郊外のステーグリッツで過ごしたと書いてありました。彼は肺結核で僅か40歳の終わりで亡くなっています。僕は、ドーラのことは知っていましたが、カフカがステーグリッツにある公園の近くに家を借りてこの女性と一緒に数か月住んでいたことを初めて知りました。カフカが最晩年に好んでドーラと散歩した場所、ステーグリッツ公園ってどこにあるのだろう?今、ちょうどベルリンにいるのだから、何としても探して行かなくてはと思いました。明くる朝早く、僕はベルリン中央駅に向かいました。作者の生誕地、好み、育った環境、生活した街を知れば、その作品の生まれた背景や、発しているイメージをかなり理解できるようになるからです。
 急に思い立ってこうした行動ができるのが、自由な一人旅の良さです。

Dora Diamant
HBF(ベルリン中央駅)のインフォメーションで、ステーグリッツ公園への行き方を尋ねました。簡単にわかると思っていたら、大間違いでした(・・;) 地下鉄の駅にSteglitzステーグリッツという駅があるから、そこのことではないか、そこに行ってみたらどうかとだけ言われました。そこで8駅はなれたその駅まで行ってみたものの、この公園のことについて尋ねても誰も知らないのです。困ったタコはいろいろ方向を見定めて、なんとなくビルの少ない方にカンで歩いて行きました。足のマメが前日の4か所の骨董市めぐりですっかり悪化していましたが、どうにか絆創膏でしのいでいました。しばらく痛い足をかばいながら進むと、男性のお年寄りが歩いて来たので話しかけてみました。「その公園はこの先をまっすぐ下の方へいくとあるよ」と言うと、去ってしまいました。やはり方向はタコのカンが当たっていました。でも足が痛いので、おじいさんの距離感が問題です。そこで更に先の道路の交差点あたりで、ベビーカートを押している3人のお母さんたちに尋ねてみましたら、その中の一人が知っていて、詳しく道を教えてくれました。


Stadtpark Steglitz 0.4キロの標識を見つけたときは、うれしかった!
 

こどものころから大好きな石神井公園とよく似た雰囲気があります。
 

やっと入り口を見つけました。とても静かな公園で、戦火を避けて昔の様子を今に伝えてくれています。大きな並木道もあり、自然の中に、近くを川が流れています。池もありとても黄葉もきれいでした。1914年の段階で、彼はベルリンを自分に最も好もしい街と考えていました。彼が散歩した季節もちょうど僕が訪れた11月頃です。僕が小さい時から好きで通っている石神井公園の三宝寺池周辺にとても似ていてうれしくなりました。鴨もいるし鳥たちもたくさんいます。カフカがベルリンに滞在できたのは死の約8か月前の1923年10月末から翌年、死の年の3月半ばまでです。病状が悪化した3月17日には、ドーラと叔父レーヴィそして生涯の親友マックス・ブロート(カフカの遺稿の大半を彼の死後、出版した最大の功労者)に助けられてプラハに戻り、その後ウイーンの森のドクター・ホフマンのサナトリウムに入りました。そこで6月3日、ドーラに看取られて亡くなっています。遺体はいつも去りたいと願っていたプラハに結局戻り、ユダヤ人墓地に埋葬されました。

ですからこのステーグリッツ時期のカフカはすでに体調も良くなく、長くは散歩できなかったと思いますが、11月から12月ころは一時的にせよ、すこぶる病状は良かったようです。このドーラと暮らした4か月あまりが、妹や友人に宛てた手紙からカフカにとって一番幸せな時期だったと推測されます。プラハから離れ、ずっと苦しんできた父親との関係からも、仕事への復帰ももはや絶望的といえる状況でした。しかしその一連の絶望感があらゆる社会的な葛藤からも完全に彼を解放したともいえるのです。ヒトラーの台頭するこの時期のベルリンは未曽有の超インフレでパン1個が2億2000万マルク(仮に1マルク100円と計算しても220億円)というとてつもないインフレの状態でした。この中を生き抜けたのはひとえに貧しいポ-ランド系ユダヤ人の家庭に育ったドーラの才覚としか考えられません。人生最後の安らぎのほんのひと時をカフカは最愛の地であるベルリンで、最愛の恋人と過ごせたのです。ドーラはカフカを愛し、彼の最期を医師と看取った一人です。

 この公園にはとても古い石のベンチがありました。(写真右)カフカはきっとこのベンチに少し疲れた様子で座わり、ドーラと言葉少なげに話していたに違いありません。タコもしばし彼らの脇に座って休憩しました。
 

公園の古い銅像

 カフカとニーチェとの出会い、バッハとマーラーとの出会い、そして古美術との出会いは僕の人生に大きな影響を与えました。どれも高校生だった1964年ころのことです。特に高校2年生の時のカフカの小説「審判」(原題:Der Prozess)との出会いは衝撃的でした。主人公であるヨーゼフ・Kをとりまく不思議な迷路のような虚構の世界のとりこになりました。以後大学ではドイツ文学科へ進み、カフカについては2年の時、ドイツ現代文学研究の志波一富教授の指導のもと、「変身」について論文もいくつか書きました。卒業後、26歳の時にはプラハのカフカゆかりの地をめぐり墓参もしました。今は若き日のなつかしい思い出です。今日もそんな若い当時の文学に埋没できた感覚に浸れてよかったです。 足がひどく痛いのによくここまでやったきたな~とつくづく思いました。


(カフカの冒頭の有名な写真は1923年から死の年の24年のものです。まさに死の影が見える表情です。その写真とドーラの写真、そしてプラハの写真はKlaus Wagenbach の Franz Kafka ,Ein Lesebuch mit Bildern,Rowohlt Taschenbuch Verlag.より借用しましたことを、ここにお断りいたします) 

2013年1月2日水曜日

「ぼろ(BORO)古布の美」 古裂の収集の楽しみ


 
 いつのころからか、はっきりしませんが、僕が露店修行をしていた頃ですから、もう25年は経っているでしょうか・・・藍染のぼろぼろの布が露店に出ていたことがありました。つぎはぎだらけのその野良着を見て「ああ、いいなぁ」と思ったものでした。使い込まれたものって力がありますね。興味を持つと集めて研究したくなりますが、こうした「ぼろBORO」は現在でもますます外人たちに人気があります。少し前はフランス人が収集していました。今はニューヨークでファッション関係の若者やデザインナー、クリエーター達に「BORO」として人気があり、日本に買い付けにくる業界人も多いと聞きます。「BORO」というタイトルの本も出版されています。 そういえばジーンズの端切れをパッチワーク風につなぎ合わせて面白い生地を作り、それでコートや上着を作るとなかなか味わい深いものができます。さらに古い生地を使えば、それはもうすごい力を服に与えますから、存在感が普通の生地とはまったく違います。 服やファッション関係ということにこだわらずにコレクションの対象として楽しむこともできますし、コンクリートの打ちっぱなしの壁にタペストリーのように掛けても強烈なインパクトがあります。

 先日(といってももう去年になってしまいましたが)開催された平和島の骨董まつりに、シブい趣味の商品を出す知人の骨董商も出店していました。僕は偶然そこに行き合わせ、とても味わい深い、半端ではない古布に巡り合いました。一目見ただけで引きつけられました。かつてタコが見た中で最高の雰囲気、味わい、古さを兼ね備えた「ぼろ布」です。25年見てきた中で秀逸なものでした。その友人も、いままで300枚以上扱ってきたが、これに勝る古布はないと断言していました。だいたい古布の命は保存状態にもよりますが、良いもので100年が一つの限界という見方があります。要するに保存状態がきわめて悪い場合はすぐに消滅するのでしょうが、状態がいいとかなり長い年月ぼろぼろになってもまた継ぎはぎされて使われます。継ぎはぎに継ぎはぎを繰り返して使う。この連続で、徹底して使い込む。そうした観点から、この古布はおそらく江戸時代をかなり遡れるものと思います。

 柳宗悦の民芸論に「用の美」というのがあります。これは家屋そのものにしてもお椀類などにしても、またさまざまな囲炉裏端の道具などにしても、使えば使うほど美しさが増すということです。民衆の日常道具のうちで、先祖から伝わる道具などの中には何代も前から使われてきたものが今でも最前線で使われています。合理的で使いやすいということも美につながります。愛され続けて、使われてきたものには、使いやすいという合理性の中に美しさが感じられるというのが柳宗悦の民芸理論における重要な主張です。これが「用の美」です。

 また日本には古来、枯れゆく美、消滅する美、消えゆく美という世界があります。仏教的空の世界では、存在するもの、色形あるものは必ず滅するという教えがあります。その姿が消えゆくときに光芒を発する一瞬のきらめきが滅びの美とされます。茶道における「わび、さび」などもその考え方の延長線上にあります。 僕はまさにこの古布BOROがその消えゆく最後の美の世界を見せていてくれているように思います。

 友人の骨董商にお願いして、この一枚の「BORO」を自分のコレクションの一つに加えました。(約145センチ×約145センチ) たとえば琳派の作品に観る古美術としての美。そしてここでご紹介した古布の消えゆく美。ともに美でありながら性格を全く異にしています。たとえば琳派の作品は、もともと美術品として生まれ、伝来してきたものです。由緒が正しい美術品といえます。それに比べて古布は生まれは民衆の生活に供されるために、どこで作られたものかもわかりません。そして長い間、消耗品として酷使され続け、擦り切れ、破れ、継ぎはぎされてまた使われる・・・こうして大半は長い酷使の時間の経過の中で消滅していったに違いありません。しかしそれらのなかから今まで残った数少ない一枚、おそらくこれまで生産された布の何百万分の一がこの残ったぼろ古布で、それゆえになんとも愛おしく美しく感じるのです。たまたま残ったものといえます。それらはともに全く正反対の世界を過ごしてきましたが、究極の「美」の一つであることに変わりはないと思います。美術品と民芸の一線はまさにここにあります。美とは美しいと感じてくれる人間にある感情であり、絶対基準はありませんから、規定はできませんが、その判断基準を自分なりにつけて行く努力を我々はしないといけないのです。それには多くの世界の物を真剣に「観る」ことによって比較研究し、どちらが美しいかの自分なりの判断基準を高めてゆくしかないのです。
 

ベルリン(Berlin)の風景

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。  朝から晴れ渡った気持ちの良い元旦です。タコの正月は、伝統にはこだわりませんが、それでもお雑煮は外せません。関東風のシンプルな鶏のお雑煮があれば、満足です。ヨーロッパから帰国してからは、ほとんど休む間もなく仕事をする日々でしたので、正月休みは貴重です。


Spree川に浮かぶポンポン船

 ベルリンでのんびり朝の散歩を楽しんだ日々が早くも懐かしいです。ベルリン中心部の便利なエリア、アレクサンダープラーツAlexanderplatzにホテルをとりましたが、そのすぐそばにニコライフィヤテルNikolaiviertelがあります。vierはドイツ語の4ですから、viertelは英語で言うクォーターquarter、つまりニコライ地区です。ベルリンで一番古い、1230年建造のニコライ教会周辺には中世以来の小道が何世紀にも渡りそのまま残っていたそうです。しかし、第二次世界大戦の爆撃で破壊され、1987年のベルリン誕生750年祭式典に合わせて、東ドイツ政府が再開発したそうです。歴史的な建築様式とともに、コンクリのブロックを使ったお手軽な建築も取り混ぜた結果が、独特な街並みになったようです。現在は、お洒落なお店や伝統的ドイツ料理を食べさせるレストランやカフェが軒を連ねています。歩いて数分しか離れていないアレクサンダープラーツとはかなり対照的な雰囲気です。とてもいいところです。シュプリー川Spreeの東岸にあり、遊覧船の様々なツアーの出発点になっています。もう少し温かい季節だったら、タコも小舟に揺られて川からベルリンを楽しみたいところでした。

Alexanderplatz駅の線路下 最近は世界中こんな落書きが多くて困ります。
 


ベルリン市庁舎前のネプチューンの噴水・Neptunbrunnen

 1891年にベルリン市から王宮に送られたというこの噴水・ネプチューンブルネンが皇帝の寝室にあった当時、皇后が不快感を持ち、向きを180度変えさせたそうです。ネプチューンを囲んで配置されている四体の女性像に原因でもあったのでしょうか?銅像に嫉妬するなんて大変な皇后ですね(笑)それぞれ、プロシアに流れるエルベ川、ライン川、ヴィスワ川、オーデル川を象徴しているそうです。どの女性がどの川/ブルネンなのか、タコにはわかりませんでしたが、ネプチューンより「川」をメインに撮影してしまいました。その後、王宮が破壊されると撤去され、修復されて1969年に現在のアレクサンダー広場に移されたそうです。
 
テディーベアの店の前で、雨に濡れた熊さん達 可愛いというにはビミョー(笑)

 Ostpaketというお店が面白かったです。一見ただのコンビニ風ですが、東ドイツや、東欧の元共産圏で作られた製品を売るお店のチェーン店です。Ostは東、paketは小包です。ドイツ民主共和国時代、東側の人々は、西側の親戚から煙草やコーヒー、お酒などの小包を送ってもらうのを楽しみにしていたそうです。しかし、ベルリンの壁が取り壊されて資本主義に組み込まれてみると、添加物や過大広告で嵩増しされた商品より、質実剛健な旧東ドイツの頃の商品の方が、効き目があったり、安全だったり、美味しかったんじゃなかろうか?なんか、違うよね・・・と昔を懐かしむ人々も多くなり、こんなお店ができたらしいです。それだけの需要があるということです。旧東ドイツの人々が西ドイツに対して感じているという経済格差からくる劣等感とか、消えつつあるものへの郷愁もあって、西側とは異なる歴史を生きてきた人々のアイデンティティーがそこにあるようです。旧東ドイツ時代の信号機(ampel)に使われていたキャラクター、アンペルマンを使ったグッズや、蚤の市で昔のカップなどに人気があるのもこうした背景があるからでしょう。ここOstpaketでは面白い本を買いました。「111Gruende Berlin zu lieben」(ベルリンを愛する111の理由とでも訳しますか)ベルリンっ子の気質を知るにはおもしろそうですので、この店で買いました。

食品からトイレタリーまで何でも揃う東ドイツ製品専門店Ostpaket
 
そのままツエッペリン飛行船に乗れそうなトラッド・ファッション
 
インパクトのあるビッグなアクセサリー ゴツイです
 
懐古調のデザインで統一したインテリアのお店
 
 
ニコライ地区はお洒落ではありますが、そこはやはりベルリン、どこか退廃的というかちょっぴり世紀末的雰囲気をたたえ、重苦しくてアンニュイな感じがウィンドウ・ディスプレーにも表れています。この首からショルダーバッグをぶら下げたマネキンは天使の羽をつけています・・・ベルリンと天使とくれば、ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の歌Der Himmel uber Berlin」(1987)が有名ですから、そのイメージなのかな、と思ったり。でもタコはむしろ「愛の嵐 The Night Porter」のシャーロット・ランプリングを連想しました。1973年のイタリア映画です。彼女は、少女時代に強制収容所でナチの将校に弄ばれた過去を背負ったユダヤ人女性を演じています。生き延びて成長した彼女は、戦後夫と訪れたウィーンのホテルで、身元をごまかしてポーターとして生活しているその元将校と再会してしまう、という複雑な愛憎が倒錯するストーリーです。そこから、強制収容所時代の回想が入り組んで、将校達のパーティーの場面でのパーフォーマンスは、シャーロット・ランプリングを世界的に有名にしました。アメリカやイギリスなら、クレームが付きそうなディスプレー。このテイストはベルリンならではのデカダンスだと思います。こんな風に、すこしレトロでほの暗いベルリンの街が、タコは大好きです。

2012年12月31日月曜日

年越し蕎麦

 2012年最終日、タコは久しぶりに両親の墓参りに行きました。ニュースでは帰省ラッシュによる交通渋滞が伝えられていたのですが、意外にも道路は空いていて、郊外にある墓地まで気持ちよくドライブできました。12月に入ってから、「マヤ歴が予言する2012年12月21日人類滅亡説」とやらがまた面白おかしくマスコミなどで取り上げられていましたが、そうでなくても世界的に不安定な情勢の続く一年でした。それでも、またこうして静かに墓を掃除してお参りできるのだから、ありがたいことです。

 今年は久しぶりにひと月以上かけてヨーロッパを旅行し、来年に向けてしっかりと充電もできました。そう言えば、ドイツやフランスではいろいろな作家や音楽家、哲学者の墓地にもたくさん行きました。お墓にも個性があり、印象に残るものも多かったです。一般人のお墓では、故人の写真を陶板に焼き付けたものがあり、デザイン的にはいまいちですが、興味をひかれました。アルジェリア戦争への出兵前か休暇中に撮ったらしい意気揚々とした軍服姿の色男だったり、当時の流行の最先端だったフラッパー風のドレスを着た美しい御嬢さんだったり、いかにも70年代なもみあげのオヤジもいれば、まだあどけない幼子もいて、全く関係のないタコも、しばし立ち止まっては「う~ん・・・」とあれこれ想像にふけってしまいました。有名人のお墓も感慨深いものがありましたが、それはまた別の機会に書きたいと思います。

  両親のお墓詣りを無事に終えたらお腹が空いたので、帰り道の蕎麦屋で昼食をとりました。まぁまぁの味でしたが、タコはやっぱり中野の「さらしな」が好きです。2012年5月1日の投稿に書いた店です。今年は最後の28日まで名古屋への出張があったのですが、東京での仕事納めの日に「さらしな」で、大好きな蕎麦掻きをいただきました。石臼で引いた北海道産の粉を蕎麦湯で練って茹で、葉形にしたものを蕎麦湯に浮かべてくれます。上に載っているのはゆずと三つ葉。一口大に箸でちぎった蕎麦掻きを、汁に浸して口に運ぶと、優しい温かさと一緒に蕎麦そのものの香りと、薬味の爽やかな香りが広がって、ほっこりした気分になります。

タコ推薦・蕎麦掻き 950円

  ざる蕎麦ももちろん美味しいですが、温かいお蕎麦なら、「地獄」も美味しい。ホウレンソウや鰹節、海藻、そして鶏卵が乗っていて混ぜていただくので、ボリュームがあります。

地獄 950円

  最後は蕎麦湯を飲みながらお腹が落ち着くのを待って、店を出る頃には、もう行列ができていました。

  


2012年12月29日土曜日

ベルリンの朝の散歩


ドラゴンを退治する聖ゲオルギウス
ベルリンについてしばらくは足慣らしのため、市内を歩くことにしました。時差の関係から、10月29日午後1時に成田を出発して、モスクワ経由で同じ日の午後8時45分にベルリン・シェーネフェルト空港に到着しました。旧東ドイツに属する空港で、いかにも質素でガラーンと広く、それが閑散とした感じを与えます。ホテルはやはり旧東ドイツのアレキサンダープラッツという駅から歩いて3分の便利な場所です。多くの地下鉄(Uバーンという)の出発点や通過点ですので、レストランやビストロもたくさんあって便利です。カリーヴルスト(Currywurst)の美味しいお店には、顔馴染みになるほど通ってしまいました。ヴルストwurstとは、ドイツ語で、ソーセージのことで、これはパリッとあぶった大き目のソーセージにカレー味のトマトケチャップをかけた軽食です。
Spree川から見るベルリン大聖堂
10月末の東京はまだ暖かくて,街路樹の葉も色づかないうちに旅立ったのですが、ベルリンに着くと、そこはもう黄葉の最後でした。道を覆う落ち葉はとてもきれいです。ベルリンの秋の美しさは有名で、ぜひ一度来てみたいと思っていました。私は大学生の頃、ドイツ文学を専攻したこともあり、一時ドイツ留学を夢見ていろいろな大学のパンフレットを取り寄せたことがありました。その中にベルリンのフンボルト財団の大学もありました。それはあくまでも夢であり、経済的な問題であきらめて就職をしましたが、もし留学できていたら人生はまったく変わっただろうなと思いながらこの大学のあたりの黄葉をながめました。
 ロンドン同様、ドイツもこの時期、雨がシトシト降り、雲が低く垂れこめどんよりとしています。傘をさすほどでもなく、だけど何もないと頭が濡れて寒い。そこで雨除けの鍔付帽子を一つ買いました。撥水加工されたコートを着て行ったので、傘なしで万全です。帽子文化の意味がわかったような気がしました。


かつての水運のためか、ベルリンは川の多い街です。その川沿いに歩くのがなかなかイイ感じです。ベルリン名物のポンポン船が行き来して、とても風情があります。雰囲気が良いせいかレストランが多く、ベルリン子の夜のたまり場みたいです。そうしたにぎやかな場所で一人飲んだり食べたりは今回は気が進まなかったし、レストランでは一人前でも食べきれないほどの量。ビールもドイツ人にはかないません。一人旅の異国の地で酔いつぶれて運河にでもころげ落ちては大変ですから、タコはもっぱら街の屋台風のソーセージ屋さんやテイクアウトの店で好きなものを適量買って、ホテルで食べ、飲みました。すぐベッドにコロンとできます。一日中歩き回って疲れた身には、その方が静かで気楽です。シャワーを浴びてさっぱりすると、東京にいる時には考えられないほどの早い時間に眠りに落ちました。
 そのようなわけで朝はやたらと早く目覚めて、時間を持て余しそうでした(^O^;) 早めにホテルの食堂に行き、ビュッフェの朝食をたっぷりとると、昼時になってもお腹が空きません。この季節は日暮れが早いですから、ランチ抜きで見学に集中し、夜食はこのようにテイクアウトしてホテルでとりました。この度ではその後もほぼこの2食体勢を貫きました。写真はアレキサンダープラッツ近くのデパートの食品売り場です。ここには何でもありますが、アツアツのソーセージはインビス(imbiss:屋台風飲食店)にかぎります。
ガレリア・カウホーフのデリカテッセン
ケーキもボリュームたっぷり!
岩塩のきいたプレッツェル(中央)が美味
CURRY36はベルリン屈指のカリーヴルストの人気店

新旧建築様式が混在する独特の街並み
ベルリンでは毎日たくさん歩きました。歩きすぎて足裏にマメがたくさんできたほど。本当に痛くて閉口しましたが、歩くことによって地図が頭に入ります。日曜日には骨董市が4か所開催されるので行ってみました。蚤の市(Flohmarkt)という名前ですが骨董品もかなり出ています。なんと楽しいところだろう。でも、マメが2個つぶれた激痛に耐えかねて薬局に駆け込みました。最新式の大きめの絆創膏を勧められ、すぐ貼れといわれ別室に案内さたのでビックリ。しかしその場で貼ったらかなり痛さは軽減されました。さすが医学のドイツと思ったら、その絆創膏は実は日本人の発明らしいです。やはり最近は日本か~!と大いに誇りに思いました(^-^)。多めに買い足したのが正解でした。気ままに歩き回りたいタコですから、この旅の最後までこの絆創膏がどれほど役に立ったことかは言うまでもありません。履き心地が良いと思っていたスニーカーが意外に痛かったので、廃棄しました。もう一足、ウォーキング・シューズを持って行って良かった。そちらに履き替えたら、柔らかくて楽になりました。


化石を売っている店のウィンドウに映ったニコライ教会
今回、ベルリンその他ヨーロッパのアンティーク・マーケットについては日本骨董学院のホームページの表紙から愛知県共済のインターネット文化講座にアクセスしていただきますと2013年1月から12回連載する予定の「西洋アンティーク紀行」をお読みいただけます。ヨーロッパの骨董市は非常に面白いので、ぜひそちらもご覧いただければと思います。

 私の滞在するホテルから歩いて10分くらいのところに通称、博物館島があり、そこに主だった美術館、博物館が集中しています。ベルリンの大きな目的はNeues Museum(新博物館)所蔵のエジプトの「王妃ネフェルティティ胸像」とAlte Nationalgalerie (旧ナショナルギャラリー)所蔵の私の大好きなカスパール・ダヴィッド・フリードリッヒの一連の名画を鑑賞すること、ペルガモン博物館の神殿を詳細に観ること、そして4か所の骨董市をめぐること、最後に第二次世界大戦後のドイツの負の遺産を徹底的に直視することでした。

2012年12月27日木曜日

初めてのベルリン

今回の旅行は10月末から12月始めまで、合計で35日間になりました。時期的な問題、到着がベルリンという条件のもとに航空会社を選ぶとロシアのアエロフロート航空にならざるを得ませんでした。運賃の安さも条件の一つです。というわけで、ロシアのシェレメチボ空港でトランジットしたのですが、空港は新しく、案内掲示などもしっかりしていて問題はありませんでした。事前にインターネットで見たいろいろな情報の中には、旅行者がパスポートコントロールに殺到して列をなし、恐ろしく時間がかかるから、飛行機から降りたらとにかく走りなさい、などと書かれていたものもあったりして、ちょっとドキドキでした。しかし、改善されたらしく、実際は特に不便は感じませんでした。ただ、搭乗直前にゲートが変更されることがあるのが日本と大きく違う点です。一応ロシア語と英語でアナウンスが流れるのですが、うっかりしていると聞き逃しかねません。ですから、電光掲示板からは目が離せません。これはドイツやフランスの鉄道、飛行場でもすべて同じですから、日本の交通機関は世界に類を見ない正確さで運行されていることに改めて驚異とありがたみを感じます。それから余談ですが、アエロフロートはフライト・アテンダントが美人ですね。飛行機の中と空港で見た限りではありますが、男はちんまりして大したことない一方、女性は白系ロシア美人が多かった、というのがタコの感想です。

 こうして、シレメチボ空港は余裕で問題なく通過できました。いよいよベルリンのシェーネフェルト空港。ここも元ロシア領で発展が遅れたせいか、閑散とした感じでした。案内所(iのマーク)でウエルカムカードを買って、列車に乗り込みます。この列車が頑丈な電車で、ものすごく重そう。ウエルカムカードは便利なもので、ベルリン近郊のすべての交通機関が3日間乗り放題。切符を買う手間が省けまるのでお勧めです。ドイツならどこの都市のインフォメーションにも観光客用に販売しています。これを見せれば飲食店から劇場、博物館などはかなりお得になります。
(写真は旧東ドイツ・アレキサンダープラッツ駅近くのホテルの部屋から見た電車線路とベルリンのシンボルのテレビ塔)

 僕は小さいころから父の蔵書にあったひげ文字の戦前のドイツの写真集に親しんできました。ビスマルクとかヒンデンブルクの時代の古きよきドイツ。初期の飛行機や飛行船。こうした子供には異次元の写真集はタコの最初の「愛読書」でした。ですからドイツにはなにか縁を感じます。高校ではドイツ語を学び、大学もドイツ語で受験し、専攻もドイツ文学科へ進学しました。そんなこともあり、ドイツやヨーロッパは幾度も訪れましたが、ベルリンは今回が初めてです。東西分裂の悲劇に見舞われ、ドイツの首都でありながら発展が遅れ、交通の便など観光の為の環境整備も遅れていたので、今まで来る機会がありませんでした。そんなベルリンに到着した時は、「やっと来れた!」という感じでした。自分の人生の「穴」を埋める意味合いも大きいと感じていました。

 ベルリンはヒトラーの総統司令部があったので、徹底的に爆撃され、戦闘で破壊されました。ヒトラーについては、面白い映画があります。2004年公開の「ヒトラー最期の12日間 Der Untergang」という映画です。ヨアヒム・フェストによる同名の研究書と、アドルフ・ヒトラーの個人秘書を務めたトラウドゥル・ユンゲの証言を土台とした脚本です。この個人秘書の証言の中立性については疑問視される点もあるようですが、稀代の独裁者を一人の人間として綿密に描き出すことにチャレンジしている点で評価できる映画です。ヒトラーを演じたドイツの国民的俳優、ブルーノ・ガンツがとにかく強力です。歴史上の人物を主人公に据えた映画となると、相応の俳優がキャスティングされ、その力量を存分に発揮した見ごたえのある作品が数多くあります。王族であれ、ギャングであれ、良くも悪くもその人物がどのように形成されていったのか、観る者を納得させる演技と筋立てになっているのが常です。しかし、ヒトラーを描くとなると、同情や共感を呼ぶような演出は、一切許されません。その不気味なカリスマ性で群集を沸かす、ナチスの党大会での演説の場面なども使われていません。息苦しくなるような威圧感を漂わせつつ、最期の12日間に煮詰まって行く狂気を滲ませるブルーノ・ガンツのヒトラーには、まるでドキュメンタリーのような凄みがあります。「この手の映画はヘビーでちょっと・・・」、と言っていた友人も、さわりだけ観るつもりが、最期まで引き込まれてしまったそうです。

総統司令部の地下には周囲すべて3メートルの鉄筋コンクリートで固めた巨大な地下室があり、そこからヒトラーは命令を出して全軍を指揮していたそうです。映画は、ほとんどこの地下壕で展開されるので、その閉塞感とブルーノ・ガンツの濃さが相まって、見る側も消耗していきます。とうとう追い詰められたヒトラーは前日に結婚式をあげた愛人、エバ・ブラウンと自殺して、庭でガソリンで焼却させます。ブランデンブルグ門の近くに首相官邸と総統司令部がありましたから、その場所はおおよその見当はついています。ただ、どの地図にも、案内書にもその地下壕については何一つ掲載されていません。ドイツ政府はヒトラー崇拝熱やネオナチの台頭を恐れているのでしょうか。その総統司令部跡を探すのも今回の目的の一つでした。

(写真はベルリンの美しい晩秋のようすです)