2013年1月3日木曜日

カフカ(Franz Kafka)の散歩道 Steglitz公園


カフカと同時代のプラハの城の遠景とカレル橋
フランツ カフカ(Franz Kafka)
20世紀を代表する世界的作家。チェコのプラハに生まれる。小さいころから繊細な性格のカフカは、生粋の商人で経済力のある父との葛藤に悩み、それが抑圧された時代とプラハという迷路のような古都を背景に、独特の文学を形成した。当時、死の病とされた結核に侵されたこともその文学に大きな影を落としている。代表作に「審判」「城」「変身」「アメリカ」「死刑宣告」「父への手紙」などがある。1884年~1924年


 2012年11月4日、ベルリン・ボーデ博物館通りの古本と骨董市で「カフカ評伝(Franz Kafka)」著者Klaus Wagenbach を見つけて買いました。(ボーデ博物館通りの古本と骨董市については、日本骨董学院ホームページhttp://www.kottou-gakuin.com/から愛知県共済のインターネット連載講座「西洋アンティーク紀行」ベルリンの骨董市めぐりをご覧ください)


1923年か死の年1924年のカフカ
僕が若き日に熱中して読んだカフカ。その晩、早速ホテルでその評伝を読むと、カフカは、死の8か月前に最後の恋人、ドーラ・ディアマント(Dora Diamant)と生涯で一番幸せだったひと時をベルリン郊外のステーグリッツで過ごしたと書いてありました。彼は肺結核で僅か40歳の終わりで亡くなっています。僕は、ドーラのことは知っていましたが、カフカがステーグリッツにある公園の近くに家を借りてこの女性と一緒に数か月住んでいたことを初めて知りました。カフカが最晩年に好んでドーラと散歩した場所、ステーグリッツ公園ってどこにあるのだろう?今、ちょうどベルリンにいるのだから、何としても探して行かなくてはと思いました。明くる朝早く、僕はベルリン中央駅に向かいました。作者の生誕地、好み、育った環境、生活した街を知れば、その作品の生まれた背景や、発しているイメージをかなり理解できるようになるからです。
 急に思い立ってこうした行動ができるのが、自由な一人旅の良さです。

Dora Diamant
HBF(ベルリン中央駅)のインフォメーションで、ステーグリッツ公園への行き方を尋ねました。簡単にわかると思っていたら、大間違いでした(・・;) 地下鉄の駅にSteglitzステーグリッツという駅があるから、そこのことではないか、そこに行ってみたらどうかとだけ言われました。そこで8駅はなれたその駅まで行ってみたものの、この公園のことについて尋ねても誰も知らないのです。困ったタコはいろいろ方向を見定めて、なんとなくビルの少ない方にカンで歩いて行きました。足のマメが前日の4か所の骨董市めぐりですっかり悪化していましたが、どうにか絆創膏でしのいでいました。しばらく痛い足をかばいながら進むと、男性のお年寄りが歩いて来たので話しかけてみました。「その公園はこの先をまっすぐ下の方へいくとあるよ」と言うと、去ってしまいました。やはり方向はタコのカンが当たっていました。でも足が痛いので、おじいさんの距離感が問題です。そこで更に先の道路の交差点あたりで、ベビーカートを押している3人のお母さんたちに尋ねてみましたら、その中の一人が知っていて、詳しく道を教えてくれました。


Stadtpark Steglitz 0.4キロの標識を見つけたときは、うれしかった!
 

こどものころから大好きな石神井公園とよく似た雰囲気があります。
 

やっと入り口を見つけました。とても静かな公園で、戦火を避けて昔の様子を今に伝えてくれています。大きな並木道もあり、自然の中に、近くを川が流れています。池もありとても黄葉もきれいでした。1914年の段階で、彼はベルリンを自分に最も好もしい街と考えていました。彼が散歩した季節もちょうど僕が訪れた11月頃です。僕が小さい時から好きで通っている石神井公園の三宝寺池周辺にとても似ていてうれしくなりました。鴨もいるし鳥たちもたくさんいます。カフカがベルリンに滞在できたのは死の約8か月前の1923年10月末から翌年、死の年の3月半ばまでです。病状が悪化した3月17日には、ドーラと叔父レーヴィそして生涯の親友マックス・ブロート(カフカの遺稿の大半を彼の死後、出版した最大の功労者)に助けられてプラハに戻り、その後ウイーンの森のドクター・ホフマンのサナトリウムに入りました。そこで6月3日、ドーラに看取られて亡くなっています。遺体はいつも去りたいと願っていたプラハに結局戻り、ユダヤ人墓地に埋葬されました。

ですからこのステーグリッツ時期のカフカはすでに体調も良くなく、長くは散歩できなかったと思いますが、11月から12月ころは一時的にせよ、すこぶる病状は良かったようです。このドーラと暮らした4か月あまりが、妹や友人に宛てた手紙からカフカにとって一番幸せな時期だったと推測されます。プラハから離れ、ずっと苦しんできた父親との関係からも、仕事への復帰ももはや絶望的といえる状況でした。しかしその一連の絶望感があらゆる社会的な葛藤からも完全に彼を解放したともいえるのです。ヒトラーの台頭するこの時期のベルリンは未曽有の超インフレでパン1個が2億2000万マルク(仮に1マルク100円と計算しても220億円)というとてつもないインフレの状態でした。この中を生き抜けたのはひとえに貧しいポ-ランド系ユダヤ人の家庭に育ったドーラの才覚としか考えられません。人生最後の安らぎのほんのひと時をカフカは最愛の地であるベルリンで、最愛の恋人と過ごせたのです。ドーラはカフカを愛し、彼の最期を医師と看取った一人です。

 この公園にはとても古い石のベンチがありました。(写真右)カフカはきっとこのベンチに少し疲れた様子で座わり、ドーラと言葉少なげに話していたに違いありません。タコもしばし彼らの脇に座って休憩しました。
 

公園の古い銅像

 カフカとニーチェとの出会い、バッハとマーラーとの出会い、そして古美術との出会いは僕の人生に大きな影響を与えました。どれも高校生だった1964年ころのことです。特に高校2年生の時のカフカの小説「審判」(原題:Der Prozess)との出会いは衝撃的でした。主人公であるヨーゼフ・Kをとりまく不思議な迷路のような虚構の世界のとりこになりました。以後大学ではドイツ文学科へ進み、カフカについては2年の時、ドイツ現代文学研究の志波一富教授の指導のもと、「変身」について論文もいくつか書きました。卒業後、26歳の時にはプラハのカフカゆかりの地をめぐり墓参もしました。今は若き日のなつかしい思い出です。今日もそんな若い当時の文学に埋没できた感覚に浸れてよかったです。 足がひどく痛いのによくここまでやったきたな~とつくづく思いました。


(カフカの冒頭の有名な写真は1923年から死の年の24年のものです。まさに死の影が見える表情です。その写真とドーラの写真、そしてプラハの写真はKlaus Wagenbach の Franz Kafka ,Ein Lesebuch mit Bildern,Rowohlt Taschenbuch Verlag.より借用しましたことを、ここにお断りいたします) 

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